【ブルガリア出身ジャーナリスト記事】ボコバ一族の闇 ~イリナ・ボコバは国連事務総長としての資格があるのか~

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イリナ・ボコバ ユネスコ事務局長

現在ユネスコの事務局長で、国連の次期総長に出馬するブルガリア出身の女性イリナ・ボコバ氏について、同国出身のジャーナリスト、ミロスラフ・マリノフ氏が書いたコラム「ボコバ一族の闇」をご紹介します。
ボゴバ氏が北京で行われた抗日戦争勝利70年記念行事(2015年9月)に出席したのも、南京大虐殺の記憶遺産の登録を決めたのも、このコラムを読んで彼女の背景を知ると頷けます。

 

 

マリノフ氏著書

 

 

【 コラム 著者 ミロスラフ・マリノフ(Miroslav Marinov) 】
カナダ在住のライター・フリーランスジャーナリスト。ブルガリア出身。ソフィア大学哲学科を卒業後、ブルガリア科学アカデミー哲学研究所にて博士課程修了。北米の政治を中心に執筆活動中。
近著は Lynched:The Media War against Rob Ford

 

 

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★ 英語版 Bokov Family ENGLISH PDF

ボコバ一族の闇
~イリナ・ボコバは国連事務総長としての資格があるのか~

ミロスラフ・マリノフ

ボコバ一族が権力中枢にのし上がった背景

次期国連事務総長として最有力視されている現ユネスコ事務局長のイリナ・ボコバは、これまで以上にその個人的資質や経歴が注目を集めることになると思われる。イリナのキャリアは、共産主義国家ブルガリアの支配階級だけが有する特権によってもたらされたものであり、その生い立ちは腐敗した組織である国連に深く共鳴している。

ボコバ家という特異な一族がブルガリアの権力中枢に上り詰めることができたのは、第二次世界大戦中の激動のブルガリアの歴史を振り返る事によって説明ができるだろう。

当時のブルガリアにおける共産主義運動は、常に取るに足りないもので大きな流れとなることはなかった。1939年、スターリンとヒトラーの間で独ソ不可侵条約が締結されて「友好関係」が結ばれ、コミンテルンは各国の共産党に対してナチスドイツを支援するように指示をした。1941年3月、ブルガリアの「ファシスト」政府(実際にはファシスト政権ではなかった)は枢軸国に入り、ブルガリア共産党はその政府の決定を支持しなければならなかった。つまり、反ファシズム戦線を棚上げせざるを得なかったのである。ブルガリア共産党は、1941年6月にナチスドイツがソ連に侵攻した後に、初めて反ファシズム政党としての活動を開始した。

ブルガリアはナチスドイツと同盟を結んだが、当時のブルガリア国王はあらゆる手段を用いて自国が戦場にならないように尽力した。ソ連には軍隊を送らず、ヒトラーの度重なる要求にもかかわらずユダヤ人の送還、すなわち強制収容所に送ることを拒否し続けたのである。当時、ブルガリア共産党のレジスタンスは惨めな状況にあり、どこからも大規模な支援は受けられず、1000人規模の党員が森に立てこもって実現不可能と思われる政権打倒の機会を狙っていた。

共産党の状況が劇変したのは、ソ連軍がブルガリアに侵攻した1944年9月のことである。1944年9月8日、ソ連がブルガリアに侵攻し、翌日の9月9日、合法的政権であった当時のブルガリア政府は、祖国戦線(Fatherland Front)と呼ばれた陸軍将校グループのクーデターにより退陣を余儀なくされた。ソ連がブルガリアを占領するやいなや、ブルガリアの共産党員は新政府で主導的な役割を担うようになり、最初の数日間で「古い秩序」の支持者であった20万人もの国民を粛正したのである。粛正の犠牲となった人々の大多数が高等教育を受けた人々であった。正確な犠牲者数は未だに公表されていない。その後、ブルガリア共産党が「人民裁判所」を設置し、これにより5万人近くの人々が「ファシズム」を支持したという罪で投獄されたり、殺害された。こうして欠員となった当時の政府や教育機関の数々のポストを埋めたのは、共産主義に対する熱意のみが認められて選ばれた教育程度の低い労働者や農民達であった。

これが、ボコバの一族が共産党政権下で頭角を現してきた歴史的な背景である。

 

イリナ・ボコバの父親であるゲオルギ・ボコバが殺人事件に関与

ボコバ一族の家長であるゲオルギ・ボコフ (Georgi Bokov) *は、無学の農民の息子であった。ゲオルギは1940年にブルガリア共産党の党員となり、1942年から1943年までソフィア大学で法律を学んだ。しかし、過激な共産主義活動を行ったゲオルギは、大学入学1年目で退学処分となり、その後反政府武装グループの「政治委員」となった。1944年9月のクーデター以降、このようなゲオルギの活動が彼の共産主義活動家としてのキャリアを切り開いていったのである。

トドル・ジフコフとゲオルギ・ボコフ(右)

トドル・ジフコフとゲオルギ・ボコフ(右)

ゲオルギは、当時ブルガリアで人気のジャーナリストで漫画家であったライコ・アレキシエフ (Raiko Aleksiev) の殺害に及んだ民兵らの残虐行為に積極的に関与していた。1944年のクーデター後に、アレキシエフは第二次世界大戦中にスターリンの漫画を出版したことを罪に問われて逮捕され、獄中で民兵による拷問を受けて死亡した。共産党政府はその事件を隠ぺいしようとしたが、ゲオルギが重い靴でアレキシエフに殴る蹴るの暴行を働いたと証言する者が現れた。

ライコ・アレキシエフ

ライコ・アレキシエフ

アレキシエフが獄中死すると、彼の遺体は棺桶に密封され、決して棺桶の蓋を開けないようにという命令と共に家族の元に送り返された。しかし、アレキシエフの妻はその命令に従わなかった。棺桶の蓋を開けた妻が目にしたのは、体中の骨を折られ、睾丸までも潰された無残な姿に変わり果てた夫の遺体であった。

アレキシエフが殺害された直後に、残された遺族は自宅から追い出された。当時、このような「国民の敵」に対する措置は、よくあることであった。被害者が殺害あるいは追放された場合、その自宅は没収され、「貴族階級」の共産党員に与えられたのである。

ブルガリア共産党に対する徹底した忠誠心を表明し続けたゲオルギは、地元の党委員会で短期間働いた後、1946年にプラウダのブルガリア版と言える共産党機関紙(Rabotnichesko Delo (Workers’ Action))に職を得ることができた。ジャーナリストとして相応しくない経歴であったにもかかわらず、ゲオルギは1958年には党機関紙の編集長となり、更には1960年、ブルガリアのジャーナリスト労働組合委員長に就任し1976年までの16年間その役職を務めた。また、ブルガリア共産党中央委員会のメンバーにも選出された。しかし、ゲオルギは1976年に突然全ての党役職を解任され、早期退職をしてしまった。その理由は、未だに明らかにされていない。

ブルガリア共産党書記長のトドル・ジフコフは、スターリンとは異なり、揺るぎない支配を確立するために政敵を寛大に扱い従順にさせ、ジフコフ支配の35年間の間に政権内であえて彼に挑戦する者が誰も出てこない空気を醸成することに成功した。ジフコフ書記長の融和戦略により、退職後もゲオルギは在職中と変わらない特権を維持することができた。ゲオルギはジフコフに従順な共産党幹部の一人だったのである。彼は1989年にその生涯を終えた。

 

特権を享受するボコバ一族

1944年、ゲオルギ・ボコフは、共産党党員で後に妻となる女性、ナデジダ (Nadezhda)と出会った。ナデジダは、当時既婚者で幼い息子がひとりいたが、離婚してゲオルギと再婚した。その後、ボコバ夫婦に二人の子どもが生まれた。フィリップ・ボコフ(Filip Bokov,1948年~)とイリナ・ボコバ(Irina Bokova,1952年~)である。フィリップとイリナの兄妹は、共産党支配階級出身者として、生まれた時から特権を最大限に享受して育てられた。両親が「資本主義とファシズムに対抗する「アクティブ・ファイター」と呼ばれる共産党幹部であったことにより、フィリップとイリナ兄妹には更なる特別待遇が与えられた。当時ブルガリアでは、大学を含めて全ての教育が無償であった。しかし、ブルガリア国内の大学が全ての入学希望者を受け入れることは不可能だった為、大学入学試験は熾烈を極めた。特権階級出身で「アクティブ・ファイター」の子弟であったボコバ兄妹は、このような社会状況にもかかわらず、本人の能力や学業成績に関係なくブルガリア国内のどの大学にも無試験で入学が許可されたのである。

外交官になるべく教育を受けたボコバ兄妹は、一般市民は入学ができないソフィアのエリート英語学校を卒業し、その後モスクワ国際関係大学に進学した。このように海外の大学で教育を受けることが出来るのは、著名な共産主義者かシークレットサービスの協力者の子弟のみである。ブルガリア共産党あるいは「ふさわしい人物」の子弟であれば、望むキャリアを何でも手に入れられる。それは、実に簡単で当然なことでもあった。

 

 家庭崩壊に直面した兄フィリップ・ボコバ

イリナの兄フィリップ・ボコフは、1974年にブルガリア外務省に入省、1986年に駐英大使に就任した。1989年、共産党政権が崩壊したが、そのことは彼のキャリアに大きな影響を及ぼさなかった。ブルガリア共産党からブルガリア社会党へと党名が変更されても中身は変わらず、党員や上級幹部はそのまま党に残り、1990年に実施された最初の「自由」選挙では社会党は不正行為とプロパガンダで勝利を手にした。フィリップは、その後すぐに社会党の著名な政治家として知られるようになった。

1970年代に、フィリップは党中央委員の娘であるユリア・ブラディコバ (Yulia Vladikova)と結婚した。ユリアは、1973年にソフィアで車を運転中にスピードを出しすぎ老女をはねて死亡させるという事故をひき起こした。この交通事故の犠牲者の家族は正当な裁判を望んだのだが、事故はもみ消され、ユリアが加害者として罪に問われることはなかった。また、ガーディアン紙(The Guardian)が駐英大使としてフィリップがロンドンに赴任中に、ユリアが幾度か万引きをしたことを記事にした、とブルガリアの新聞は報道している。ユリアの行動は窃盗癖や不安定な精神状態のせいであるとされたが、それによってフィリップのイギリスでのキャリアに終止符が打たれた。

フィリップ・ボコフ(左)とゲオルギ・ジュニア 『犯罪者の体質を受け継いだ父と息子』(原文ブルガリア語)

フィリップ・ボコフ(左)とゲオルギ・ジュニア
『犯罪者の体質を受け継いだ父と息子』(原文ブルガリア語)

フィリップとユリア夫妻にはゲオルギ (Georgi、フィリップの父親と同じ名前)とビリアナ(Bilyana)という二人の子どもがいた。政治的影響力を持つ父親の存在はゲオルギ・ジュニアに様々な機会を与えてくれたはずであったが、彼が選んだのは犯罪への道だった。ゲオルギ・ジュニアは悪名高い自動車泥棒となり、1993年の逮捕を始めとして、その後何度も逮捕された。拳銃の不法所持を含め、有罪判決を4度も受けて服役した。2001年には盗難車を運転中に警察から追われ、逃げる途中に交通事故を起こして重傷を負った。フィリップはこうなってようやく息子の更生を諦めてゲオルギ・ジュニアと縁を切ったのである。

フィリップの娘ビリアナは弁護士になったが、家庭崩壊による精神的ストレスは相当なものだったのだろう。ビリアナは、2003年に自宅で首をつって自ら命を絶ってしまった。何度も繰り返された兄の犯罪が自殺の原因ではないかと噂されている。

フィリップの家庭は、ビリアナの死後ますます家庭崩壊への道を突き進んでいった。ゲオルギ・ジュニアは母親との折り合いが悪く、ユリアは息子ゲオルギ・ジュニアから幾度も暴行を受けたと訴えていた。最悪の事態が発生したのは2006年のことである。

ユリアが自分の手術費用をゲオルギ・ジュニアから借りていたのだがそれを期限までに返済しなかった為、彼が母親の自宅に押しかけた。二人は口論となり、ジュニアは母親に殴る蹴るの暴行を加え、大怪我を負わされたユリアは警察に被害届を提出したのである。

更に2011年の8月、ゲオルギ・ジュニアと妻のマリアは田舎道を運転中に交通事故を起こしてしまう。スピードの出しすぎでコントロールを失ったジュニアの車が観光バスと正面衝突し、バスの乗客19人が負傷した。ジュニア夫婦は即死であった。夫婦の遺体は地元の遺体安置所に運ばれたが、フィリップもユリアも遺体の引き取りを拒否し、ジュニア夫婦の遺体はボコバ家の墓には埋葬されなかった。ブルガリアの新聞のインタビューでユリアは「息子は罰を受けた」と心境を語った。

『私の息子は当然の罰を受けた』(ゲオルギ・ジュニア死亡後に母親ユリアが出したコメント 原文ブルガリア語)

『私の息子は当然の罰を受けた』(ゲオルギ・ジュニア死亡後に母親ユリアが出したコメント 原文ブルガリア語)

 

イリナ・ボコバのスキャンダル

イリナ・ボコバ自身も、問題の多い人物である。モスクワ国際関係大学を卒業後、兄のフィリップの監督下でブルガリアで働き始める。イリナは、「輝かしい」経歴により国連のブルガリア政府代表部の3等書記官となり(1982年~1984年)、その後昇進を重ねてブルガリア外務省書記官としてニューヨークに駐在することとなった。兄と同様に、共産党政権の崩壊は彼女のキャリアにとっては追い風となった。1990年、ブルガリア議会の議員に当選し、1995年から1996年まで外務大臣としての任期を務めた。

イリナのキャリアが上向きになってきていた頃、ブルガリアの新聞が彼女のスキャンダルを掘り起こしたことがある。義理の姉、ユリアがひき起こした人身事故と同様に、イリナ自身も1986年にソフィアで車を運転中に老婦人をひいて死亡させてしまっていたのである。すでに退職していた父親ゲオルギがコネを使い動いたため、イリナは事故の罪に問われずに済んでいる。

イリナがユネスコの事務局長として選出された後のことであるが、アメリカン・スペクテイター誌(The American Spectator)が、1980年にブルガリアから亡命した元外交官から聞いた話としてイリナのニューヨーク駐在時代のスキャンダルを暴露している。その元外交官は、イリナは筋金入りの共産党路線のプロモーターではあったが、彼女の行動は「優れた」共産党員の倫理からは程遠いものだったと回想していた。当時、イリナは最初の夫であるジャーナリストのルブミア・コラロフ(Lyubomir Kolarov)と一緒に暮らしていたが、夫が大酒飲みだったために二人の関係はうまくいっていなかった。そのうえ、イリナは同僚の外交官カリン・ミトルフ(Kalin Mitrev)と密かに付き合い始めていたのである。アメリカン・スペクテイター誌に掲載された記事は、イリナとカリン・ミトルフの不倫騒動を面白おかしく次のように述べている。

「ミトルフの父親が共産党の幹部だったことからイリナとミトルフの不倫関係はずっと 秘密にされてきていたが、ある事件をきっかけに公になってしまった。ある夜、マンハッタンのアッパーイーストサイドのあるアパートの外に、多くの人々が集まっていた。当時のボコバの夫であるコラロフが、自宅アパートの11階バルコニーから1階下のミトルフが住む部屋のバルコニーに飛び移ろうとして、ぶら下がったまま動けなくなっていたのである。コラロフがイリナとミトルフとの密会の現場を押さえようとしていたのは明らかだろう」

この事件の後、イリナはアメリカから本国に召還された。ブルガリアの腐敗した政治環境下においては、このような逸脱行為があったとしても当時者の政治家や官僚としてのキャリアが脅かされることはない。ニューヨークでの不倫騒動がイリナ・ボコバのキャリアを傷つけることはなかった。甥の犯罪歴が原因でイリナが駐英大使になれなかったという噂が流れたことがある。その噂は本当だったのかも知れないが、甥のゲオルギ・ジュニアの犯罪歴がイリナの昇進を妨げるようなことは無かった。うわさが広まった直後、イリナはユネスコのブルガリア代表と駐仏大使に任命され、2009年にはとうとうユネスコ事務局長に選出されたのである。そして現在、イリナ・ボコバは次期国連事務総長候補のトップランナーである。

 

腐敗した国連、ブルガリア政府とイリナ・ボコバは完璧にマッチ

暗い想像力をかき立てるハワード・フィリップス・ラヴクラフトやスティーブン・キングのような作家でも、ボコバ一族のおぞましい過去のようなストーリー展開は思いつかないのではないだろうか。ブルガリアでは「ボコバ一族はジプシーに呪いをかけられた」などと噂する人がいる。しかし、ボコバ一族の闇を説明することは簡単である。ボコバ一族は善と悪の概念の基準が曖昧か、または善悪の概念自体を否定する非道徳な社会の産物なのである。ブルガリアでは、共産党の利益とその支配階級が何よりも重要なのである。多くの東欧諸国では、共産党政権の崩壊後も人々の精神構造は変わっていない。

イリナ・ボコバはスキャンダルにまみれた人物だと思うかもしれない。しかし、オバマ大統領やヒラリー・クリントン、カナダのジャスティン・トルドー首相が政治の腐敗に貢献していることを考えれば、ボコバの腐敗ぶりは珍しいことではない。類は友を呼ぶである。イリナ・ボコバが自身の過去より醜い国連という組織の次期事務総長の座を狙っている事実を考えると、彼女のようにスネに傷を持つ人物を他者がコントロールするのはたやすいことだろう。国連がサウジアラビアのような野蛮な国に人権を「擁護」する人権理事会のポストを任せるのであれば、後ろ暗い過去を持つイリナ・ボコバは役に立たない組織である国連にとって理想的な人材と言えるだろう。

※ブルガリアでは、女性の場合名字にaを付けます。これはスラブ語圏では一般的で、イリナ・ボコバの場合父がゲオルグ・ボコフ(Georgi Bokov)なので、Bokovaとなります。

 

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family

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参考資料:
http://www.24chasa.bg/Article.asp?ArticleId=236668
Бокови – от “Работническо дело” до ЮНЕСКО (The Bokov Family – from Rabotnichesko Delo to UNESCO)

http://tutankhamon661.blog.bg/politika/2011/08/28/chernoto-semeistvo-bokovi.810088
Черното семейство Бокови (The Dark Bokov Family)

http://www.blitz.bg/article/26650
Майката на Георги Боков убила баба на булевард (Georgi Bokov’s Mother Killed an Old Woman on a Boulevard)


http://www.168chasa.bg/Article/1007325

Георги Боков не се виждал с родителите си, искали да се откажат от него (Georgi Bokov Had no Communications with His Parents, They Wanted to Abandon Him)

http://www.flagman.bg/article/27705
Майката на Георги Боков: Вселената го наказа! (Georgi Bokov’s Mother: the Universe Punished Him!)

http://www.24chasa.bg/Article.asp?ArticleId=1003527
Синът на Филип Боков загина в зверска катастрофа (Filip Bokov’s Son Perished in a Horrific Crash)

http://www.24chasa.bg/Article.asp?ArticleId=1005082
Филип Боков ще кремира Георги (Filip Bokov to Cremate Georgi)

http://www.thenewamerican.com/world-news/item/21469-bulgarian-communist-and-unesco-boss-irina-bokova-may-lead-un-video
Bulgarian Communist and UNESCO Boss Irina Bokova May Lead UN

http://glasove.com/categories/komentari/news/izborut-na-bokova-e-sram-za-bulgariya-i-yunesko
Изборът на Бокова е срам за България и ЮНЕСКО (The Election of Bokova is Shame for Bulgaria and UNESCO)

http://spectator.org/articles/40776/familiar-new-face-unesco
A Familiar “New Face” at UNESCO: A former colleague recalls the Bulgarian ex-Communist recently named, with Obama administration backing, to head this key UN agency, by Rossen Vassilev

2016年3月1日

翻訳:マリノフ利江
小見出し、家族関係図、地図は翻訳者が追加しました。

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One thought on “【ブルガリア出身ジャーナリスト記事】ボコバ一族の闇 ~イリナ・ボコバは国連事務総長としての資格があるのか~

  1. moto says:

    国連、事務総長候補9人の公聴会を終了 「南京大虐殺文書」登録のボコバ氏、「女性平等」推進のクラーク氏を中心に展開か(産経新聞 2016年4月16日)
    http://www.sankei.com/world/news/160416/wor1604160050-n1.html

     国連本部で12~14日の3日間、今年末で任期を終える潘基文(パン・ギムン)事務総長の後任候補計9人を対象とした公聴会が開かれた。国連史上初の女性事務総長選出を目指す機運も強まっており、今後の選挙戦はヘレン・クラーク国連開発計画(UNDP)総裁(ニュージーランド前首相)と、イリナ・ボコバ国連教育科学文化機関(ユネスコ)事務局長(ブルガリア出身)の2人を軸に進むとの見方が強まっている。

     「国連には実践的で(仕事ができると)証明された指導者が必要だ」。クラーク氏は14日の公聴会でこう強調した。同氏は約7年間、UNDP総裁を務めた国連の実力者。「国連内で『女性平等』を推し進める」とも訴え、女性選出を目指す約50カ国のグループから拍手が起こった。

     国連筋によれば、有力先進国9カ国がクラーク氏を支持。「(今秋までの選挙戦で)UNDPの幹部を動員できるのも強み」(ベテラン国連記者)という。

     一方、ボコバ氏も公聴会で安定的な受け答えを見せた。世界各地から事務総長を持ち回りで選ぶ過去の慣例から東欧出身者を望む声も強く、下馬評は高い。

     ボコバ氏は、ユネスコの記憶遺産に中国が申請した「南京大虐殺文書」を登録する最終決定を下し、北京で行われた抗日戦争勝利70年記念行事にも出席した人物。公聴会の所信表明でも違う文脈ながら「北京」の名をあえて挙げるなど、ことさら中国におもねった。

     冷戦時代、モスクワの教育機関に留学し、ロシアとの関係も良好。安保理筋は「事実上、最終選出権を持つ5常任理事国のうち、中露と関係を維持していることは有利」と解説する。 (続きあり)


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