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1985年8月12日 日航機墜落事故「勝利なき戦い」に挑んだ自衛隊員たち

なでしこアクション代表山本優美子が、日本航空123便墜落事故について以前産経ウェブに書かせていただいた記事(2016.8.11付)です。
事故の起こった8月に多くの方に読んでいただきたく、ここに再掲します。

https://www.sankei.com/premium/news/160807/prm1608070004-n1.html  より

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日航機墜落事故「勝利なき戦い」に挑んだ自衛隊員たちの苦悩を忘れてはなりません

8月になると、8月15日の終戦の日や靖国神社参拝が毎年話題になりますが、私が思い出すのは昭和60年(1985年)8月12日に起きた日本航空123便墜落事故です。ヘリコプターから吊るされた自衛隊員が通称・御巣鷹の尾根(群馬県上野村の高天原山)で生存者を引き揚げて救出している映像が印象に残っている方も多いでしょう。あれは陸上自衛隊の写真ですが、航空自衛隊もまた長野県川上村に救難指揮所を設置して活動をしていました。

犠牲者520名、生存者4名。史上最悪の航空機事故に、航空自衛隊は創設以来最大規模の災害派遣出動に踏み切りました。8月12日の事故発生から8月30日の撤収までの18日間は「勝利なき戦い」と呼ばれていました。私の父は当時、入間基地の副司令であり、現地指揮官を務めました。父の保管している当時の資料を見ると、空の守りから陸に降りた航空自衛官の「勝利なき戦い」の様子がよく分かります。

自衛隊のPKO派遣や阪神大震災、東日本大震災での活躍もあり、今では国民の間で自衛隊に対する理解がずいぶん広まりました。共産党幹部が「防衛費は人を殺すための予算」と発言すると非難されるまでになりました。

しかし、昭和60年当時は今のようなインターネットやSNSによる情報はなく、新聞・テレビなどの大手メディアによる情報がすべてでした。その大半は自衛隊バッシングがメディアの正義だと言わんばかりに、まともな防衛知識もないままに自衛隊批判が繰り広げられていました。

事件発生2日後には、ある大手新聞社が「自衛隊に抗議・疑問続々」という見出しで自衛隊の現地到着が遅かったと批判し、それに続いてデマ・放言のようなバッシングが始まったのです。

自衛隊バッシングに熱心な一部メディアは、救難活動の妨げにもなりました。特ダネを求めて軽装で山中に入った記者やカメラマンが脱水症状を起こして陸自のヘリに救助されたこともありました。着陸許可がないのに新聞社やテレビ局のヘリが、救出活動中の現場空域に進入し、2次災害が起きかねない事態も招きました。現場の記者が正確な記事を書いても、冷房の効いた本社にいるデスクに没にされたり、歪められたりして、現場の記者はその都度に自衛隊に弁解したという話も残っています。

では、メディアが批判したように、本当に自衛隊は現場到着が遅かったのでしょうか?

8月12日18時57分、JAL123便がレーダーから消えた4分後の19時01分に百里基地から戦闘機2機が緊急発進し、19時21分には上空から炎を確認しています。

20時33分に羽田空港から災害派遣要請があると、7分後の20時40分には航空自衛隊入間基地から先遣隊30名が出発しました。日付が変わった13日01時10分には同じ入間基地から548名の派遣隊が出発しています。

現地へ急ぐ派遣隊にとって、最初のハプニングは高速道路料金所で起きました。災害派遣で緊急な出動なのだと説明しても料金所の担当者は「料金を払わねば通せない」の一点張り。結局、自衛隊員が立て替え払いしました。急な出動だったので財布を携帯していない隊員も多く、大型車の通行料3200円の支払いに苦労したそうです。

御巣鷹山の事故現場までは40度近い急斜面を歩かねばなりません。背丈以上ある熊笹の藪を切り開き、ロープを伝いながらの移動で3時間以上かかりました。

現場のあまりに無残な様子におう吐する隊員もいましたが、隊員達はみな懸命に働き、「一刻も早く遺族のもとへ」と肉片となった遺体を丁寧に毛布にくるみました。

「遺品はそのままにしておくようにという指示が出されていましたが、熊笹の中に時計などが落ちてると、このまま永久に見つからなかったら遺族は悲しむと思い、目立つ場所まで動かしました」

「悲惨な現場でも尻込みする者はいなかった。作業終了、下山といっても『もっと残ってやりましょう』、『休憩だ』といっても『いや続けましょう』という」

「夜、宿営地に帰った時には、みな作業服が汗でズブ濡れで疲労でおし黙っている。それでも足を怪我した隊員に翌日は『休め』というと『どうしても行かせてください』と必死でいう」

このような現場報告が残っています。18日間の救難活動に派遣された航空自衛隊の隊員は入間・浜松・百里などの各基地から延べ約1万人。怪我で手当てを受けた隊員はいましたが、脱落者はゼロでした。

こうして厳しい任務を終えて戻ってきた隊員を待っていたのは、メディアによる一方的な自衛隊批判でした。隊員はさぞ驚き、落胆したことでしょう。

そんな中、隊員の励みになったのは派遣部隊の前線基地となった長野県南佐久郡川上村のみなさんの協力でした。到着早々、地元の農家の方々が「隊員のみなさんにビタミンを」と大量の高原野菜を差し入れてくれました。汗まみれで帰ってくる隊員に、村の健康センターのお風呂を提供してくれました。体育館を宿舎として提供した川上第二小学校は始業式を2日遅らせてくれ、児童たちは励ましのお手紙を送ってくれました。

「じえいたいのみなさん、とてもつかれたでしょう。じこげんばにいって、ぼろぼろのいたいをみつけて、たいへんでしたね。学校にとまって、毎朝そうじをしてくれてどうもありがとうございます」

「8月22日の昼食をじえいたいのみなさんといっしょにたべさせていただいて、どうもありがとうございます。カレーやサラダとてもおいしかったです。げんばなどにいっていたいをはこんだりしますか。ああいうところでは、しごともきつくてたいへんだと思います。まいにちあついなかごくろうさまです」

川上第二小学校の中澤弘之校長先生(当時)は学校の記録書にこう残しています。

「隊員と児童のふれあい、この大惨事の中で昼食会や激励会がごく自然の形でなされた。隊の救援活動や児童の学校生活に効果的であった。組織体としての自衛隊の規律ある行動、礼節をわきまえた奉仕の精神、子供たちへの思いやり等、児童に多くの教訓を与えた」

あれから31年。自衛隊創設以来の大規模な災害派遣となった日航機墜落事故が残した教訓は果たして生かされているのでしょうか。

救難活動を安全・円滑に実施するために不可欠となる救援機や取材ヘリなどの空中統制は、航空法で十分に規定されているでしょうか。災害派遣車両を料金所で止めるようなことはさすがになくなりましたが、大規模な災害など緊急事態に対応するための法律は、その後の2つの大震災を経て整備されたでしょうか。自治体と防衛省の役割分担・協力体制は充分構築されているのでしょうか。災害派遣された自衛隊員への手当ては充分でしょうか。不幸にも殉職した場合、残された家族に充分な賞じゅつ金は用意されているのでしょうか。

自衛隊の任務は、自衛隊法第3条にあるように「我が国の平和と独立を守り、国の安全を保つため、我が国を防衛することを主たる任務とし、必要に応じ、公共の秩序の維持に当たるものとする」であり、災害派遣は主任務ではありません。災害時の自衛隊派遣は当たり前だと思われていますが、派遣中も限られた人員で通常の防衛業務も遂行しているのです。

政府は、もの言わぬ自衛官に「勝利なき戦い」を強いてはいませんか。自衛隊がその能力を充分に発揮できるよう、憲法改正とともに法整備を進め、装備や予算も充実させるべきです。それが、日航機事故で亡くなった520名の犠牲者の霊に報いることにもなると私は信じます。

※写真 「中警団新聞 昭和60年(1985年)9月15日」より

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島根県議会に「慰安婦意見書」撤回を求める8回目請願不採択、9回目請願へ

島根県議会が平成25年(2013年)6月26日 に可決した『日本軍「慰安婦」問題への誠実な対応を求める意見書』は、河野談話、米国下院決議121、国連人権委員会勧告を受け入れて日本政府に対応を求めるものでした。

この意見書の撤回にむけて、島根県の有志が署名、抗議文、集会など様々な取組を行ってきました。
「島根県有志の取り組み なでしこアクションブログより」参照

令和2年6月定例会にも8度目の請願書『島根県議会において平成25年6月26日付で決議された“日本軍「慰安婦」問題への誠実な対応を求める意見書”の撤回決議を求める請願』を提出しましたが、残念なことにまた不採択となってしまいました。

6月25日本会議では、成相安信議員が意見書撤回の請願を支持する素晴らしい意見表明をして下さっています。

諦めずに、令和2年9月の県議会に9回目の請願に挑戦するとのことです。

粘り強い取り組みに頭が下がります。

※島根県議会に関する情報は現地有志の共有情報から教えていただきました。

<令和2年6月定例会 6月25日 本会議 録画>
https://shimane-pref.stream.jfit.co.jp/?tpl=play_vod&inquiry_id=738

49:15~  成相 安信 議員(無会派)

成相議員発言より

二月議会の総務委員会において福田議員が大変重要なことを述べておられます。
「大正に生を受けた男子の内およそ200万人が先の大戦で戦死している。全体の実に7人に1人が戦死している。彼らは地獄の戦場で突撃を繰り返し、子孫を残さないまま多くが何も語らないまま死んでいった。生き残った大正生まれの青年たちは、亡き戦友の無念を胸にがむしゃらに働き、世界から奇跡の復興と呼ばれる経済成長の中核を担った。
子孫を残さず死んでいった若者が礎となって築かれた現代の日本、その思いや無念をきちんと本当に理解されているのだろうか、というのが小沢委員の外交に対する価値観なんだろうと思う」
といった箇所です。
確かに、現在の我が国ではこういった視点が疎かにされている現状を、小沢議員は憂慮しておられました。それが小沢議員の政治に対する姿勢にも現れていたというものです。
以下は小沢議員の言葉ではありませんが、小沢議員もその胸中に抱いておられたであろうことを申し述べます。

民族学者の柳田国男は「御先祖」についてこう述べられています。
「かつて日本では御先祖になる、という言葉が日常的に使われていました。「貴方は良い心がけだから御先祖様になりますよ」とか、子供に対しては「精を出して学問をして御先祖になりなさい」といった言い方です。そして人々は「御先祖になる」ために一生懸命善く生きようとしていたといいます。
柳田の著書にはこう書いています。
「人間があの世に入ってから後に、いかに長らえまた働くかということについて、かなり確実なる常識を養われていた」
それはつまり自分が死んだ後も仕事が待っているということです。
自分のまだ見ぬ孫やひ孫から、いつか「お爺ちゃんは立派な人だった、良い御先祖だ」と言われることによって子孫に対する規範になれるということです。
さらに柳田が戦時中にこれを書いた背景には「戦死者」の存在があったといいます。
多くの若い男たちが兵士として戦場に行き、そこで亡くなっていく。
未婚で子供のない彼らは、親兄弟が亡くなれば忘却され、永遠に御先祖になることはできない。
柳田はそれでは駄目だ、この国はおかしくなってしまう。と言ってこう主張するのです。
戦死者と養子縁組をして、彼らを「御先祖様」とする子孫をつくらなければならない。
そうしなければ私たちは未来と語ることはできなくなるだろう、と。

国家の命令で戦地に赴き、異国の地で無念のうちに短い生涯を終え、そのご遺骨さえいまだに祖国に帰ることも出来ない彼らに、ありもしない汚名を着せるなど絶対にあってはならないのです。
今年ももうすぐ暑い夏となります。お盆と共に終戦の日が訪れます。
我が国では、人は死後も霊魂となってこの世にとどまり、家族のもとへ帰ってくるという一種の祖霊信仰が深く根付いています。
それは魂が幽界から一時帰宅するお盆に祖霊に手を合わせることで、厳粛な気持ちになり、御先祖様に感謝し、自分を振り返ることにより、無意識のうちに自らの魂をも浄化しようとする行為なのです。
お盆と重なる終戦の日、私たちは心から戦死者を悼み、魂の交感をしていくということは、道徳や規律を保ち、より良い社会を目指すために大切なことであります。
しかし戦死者の多くの魂は、帰る家もなく、自らの死を悼んでくれる子孫さえ存在しない現実があるのです。

今の時代、彼らに対して心から思いを馳せる人が少数であることは、当該意見書の撤回が困難なことからでも分かります。こういったことが民主主義の実態であるとしたならば、私たちは改めて本質的な立憲主義というものを考え直していく必要があると言わねばなりません。
「民主主義と立憲主義」のふたつは法学上、あるいは政治学上も相反するというのが基本的な考え方です。
民主主義は多数派によって決定されるという政治システムであり、立憲主義とは憲法が権力を縛る。つまり多数派の支持を得たとしても、してはいけないことがある。というものです。
日本国憲法が発布されたのは74年前の1946年です。作成に関わった人たちは、ほぼお亡くなりになっているでしょう。私たちは死者が作成した憲法に縛られているということです。
民主主義の主体は現在生きている人間、つまり生者に対して、立憲主義の主体は死者であるともいえるのです。立憲主義には死者の民主主義が内包されているということです。
現行憲法は戦争という歴史とその犠牲者の上に立脚しているのです
その現行憲法の是非はともかくとしても、立憲主義を声高に唱える人々が、現在の我が国の立憲主義の主体のなかで、決して少数とは言えない戦死者の存在を意識しないどころか、貶めていこうとする民主主義はグロテスクであり、健全な保守思想とは全く相容れないものです。

ここで一点、すでに意見書撤回にご賛同いただいている方のご発言に少々異論を述べさせていただきます。
小沢議員の議員活動について、国防や竹島を中心とする領土問題など国家レベルの課題に取り組んでおられたことを指して「地方議員として特徴のある活動」とも仰っておられました。

地方議員だからと言って国家意識や国防意識が希薄であって良いわけはないのです。
国政選挙となれば政党間でし烈な選挙活動を繰り広げるなかで、当落においては地方議員の動きがその行方を決定づけることは誰しもが知っていることです。その地方議員の国家意識あり方が、将来の国家の姿に直結していくという現実をご理解して下さい。
当該意見書こそが、地方議員の国家意識の欠落の間隙を突いてきたものであることは明らかです。
グレンデール市の母親からの手紙がそのことを如実に物語っているではないですか。
平凡に生きる私たちも国家という集合体の一部なのです。
「自分は一億分の一だから国家のことを考えなくていい」などと一億人が考えては、国家は立ち行きません。県議会議員諸氏も国家のあり方については常に考えていただきたいと思います。
そして、死者が大切にした国土や、そこで作り上げてこられた文化や伝統も、この国に生まれ、育てられた私たちも国家そのものであります。
私は、終戦の日は、戦死者の方々もかつて眺めておられたであろう山河と同じ景色を眺め、
戦死者の方々は御先祖様であるのだという思いと共に、あまたの戦没者のご冥福と、
国家の安寧を祈りたい思いであります。
また小沢議員の初盆でもありますので、故人を偲ぶ時間も大切にしたいと思います。

どうか、島根県議会の皆さんにおかれましては、これらのことを念頭に当該意見書の存否をご再考いただきますようお願い申し上げます。

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【 成相議員・有志が撤回を求めている意見書 】

島根県議会 平成25年6月26日 可決

日本軍「慰安婦」問題は、女性の人権、人間の尊厳にかかる問題であり、その解決が急がれています。
この問題について、日本政府は 1993 年「河野談話」によって「慰安婦」への旧日本軍の関与を認めて、歴史研究、歴史教育によってこの事実を次世代に引き継ぐと表明しました。
その後、2007 年 7 月には、アメリカ議会下院が「旧日本軍が女性を強制的に性奴隷にした」として、「謝罪」を求める決議を全会一致で採択したのをはじめ、オランダ、カナダ、フィリピン、韓国、EUなどにおいても同様の決議が採択されているところです。
また、日本政府は、本年 5 月 31 日、国連の人権条約に基づく拷問禁止委員会より、「公人による事実の否定、否定の繰り返しによって、再び被害者に心的外傷を与える意図に反論すること」を求める勧告を受けるなど、国連自由権規約委員会、女性差別撤廃委員会、ILO専門家委員会などの国連機関から、繰り返し「慰安婦」問題の解決を促す勧告を受けてきているところでもあります。
このような中、日本政府がこの問題に誠実に対応することが、国際社会に対する我が国の責任であり、誠意ある対応となるものと信じます。そこで政府におかれては以下のことを求めます。
1 日本政府は「河野談話」を踏まえ、その内容を誠実に実行すること。
2 被害女性とされる方々が二次被害を被ることがないよう努め、その名誉と尊厳を守るべく、真摯な対応を行うこと。
以上、地方自治法第99条の規定により、意見書を提出します。島根県議会
(提出先)
衆議院議長
参議院議長
内閣総理大臣
外務大臣
内閣官房長官

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<参考 島根県有志の取り組み なでしこアクションブログより>

2020年3月24日付
島根県議会に「慰安婦意見書」撤回を求める7回目の請願
http://nadesiko-action.org/?p=14391

2014年12月31日付
竹島を領有する島根県議会がこのままで良いのでしょうか?
http://nadesiko-action.org/?p=7752

2014年9月29日付
日本を愛する島根女性の会「朝日新聞の大誤報を起因とする「河野談話」の即時撤回を要求する県民大会」
http://nadesiko-action.org/?p=7140

2014年6月23日付
日本を愛する島根女性の会から県議会議長宛て抗議文
http://nadesiko-action.org/?p=6582

2014年6月5日付
島根県議会「慰安婦」可決の説明を ネット署名3600人、提出へ
http://nadesiko-action.org/?p=6528

2014年4月13日付
竹島奪還を目指す島根県議会がなぜ「慰安婦意見書」?県議会議長に説明を求めます!
http://nadesiko-action.org/?p=6265

2014年1月14日付
カルフォルニアの母の会が島根県議会に抗議!
http://nadesiko-action.org/?p=5600

2013年12月12日付
島根県から報告「議長の椅子取りゲームに慰安婦問題を利用するのは許せない」
http://nadesiko-action.org/?p=5440

2013年10月4日付
「島根県議会の歴史認識をただす 島根県民の会」から活動予定お知らせ
http://nadesiko-action.org/?p=5033

2013年9月9日付
島根県民が「慰安婦意見書」撤回に立ち上がった!
http://nadesiko-action.org/?page_id=4791

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<参考 地方議会の慰安婦意見書について なでしこアクションブログより>

ねつ造慰安婦問題解決に向けて地方議会の意見書・決議・請願・陳情まとめ
http://nadesiko-action.org/?page_id=7180

地方議会の慰安婦意見書
http://nadesiko-action.org/?page_id=2

左派市民団体と国連のマッチポンプ
http://nadesiko-action.org/?page_id=7

韓国人青年 コウ君とニュージーランド人青年 カレム君が日韓問題を語る

ニュージーランド在住の韓国人コウ君とニュージーランド人青年カレム君の対談動画をご紹介します。
自分で調べ、日本を理解し、youtubeやSNSを使って積極的に世界に発信してくれています。
新しい世代の彼らに期待しています!

— 対談から一部紹介 —
カレム君
「日韓の動画をyoutubeに投稿するようになったきっかけは?」

コウ君
「最初の動画は昨年の今頃(2019年7月)作りました。
日本が貿易優遇から韓国を除外した時でした。
韓国が材料を北朝鮮に流した疑いがあったからです。

韓国政府は日本政府に証拠を示さずに、”日本は韓国裁判所の強制労働問題判決を理由に韓国への優遇措置を外した” と韓国人を洗脳し始めたのです。

私は韓国人みんなが洗脳されているのではないことを知って欲しかったので、最初の動画を公開しました。」

カレム君
「ニュージーランドに来る前に、日本人にもっていたイメージは?」

コウ君
「かなり悪かったです。韓国のメディアは日本を敵視しているので。9歳の僕は日本人に殴られると思ってました。」

カレム君
「韓国政府が反日教育をするメリットは何だろう?」

コウ君
「反日教育の背後は左翼。私は韓国には真のリベラルはいないと思っています。
韓国のリベラルは北朝鮮と中国に主体思想共産主義ルールを信じるように煽られています。左翼は反日教育をすることで韓国人の民族ナショナリズムを推しています。そして、北朝鮮は敵ではなく仲間だよ、と。彼らの最終目的は韓国を北朝鮮の下で統一する事でしょう。」

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◆ ニュージー男子 ( ニュージーランド人青年のカレム君 )
youtube
https://www.youtube.com/channel/UCsn9WDg5JMqN7aZIkMEdrFg

facebook
https://www.facebook.com/AronsenCallem

◆ コウ TV ( 韓国人青年のコウ君 )
youtube
https://www.youtube.com/channel/UCcrd9veNB4CF7Z9STrEJyaQ/

ツイッター
https://twitter.com/kotv05367129

自称元慰安婦の解放後生活

長尾秀美氏(元在日米海軍司令部渉外報道専門官、小説家、ノンフィクション作家)より元慰安婦の証言集を調べた論考「自称元慰安婦の解放後生活」をいただきましたので、ご紹介します。

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令和2年(2020年)7月30日

長尾秀美

元在日米海軍司令部渉外報道専門官、小説家、ノンフィクション作家

自称元慰安婦の解放後生活

1.懺悔

私は懺悔する。

私が慰安婦問題に関心を持って以来もう数年になる。三面記事のような吉田清治氏や千田夏光氏の著作を読んだ時、すでに朝日新聞が訂正記事を出していた。したがって官憲が20万人もの女性を戦地へ強制連行し、性奴隷として働かせたという主張には与(くみ)しなかった。戦前戦中に日本や朝鮮半島で悪質な人身売買があったことまでは否定しないが、それは公娼制度下の例外だったと考えている。

昨年春からの拙著や拙論で私は自称元慰安婦の人格について何度か触れた(注1)。それは挺対協(現正義連)によって人権侵害問題の偶像となった彼女たちが自己を引き裂かれ、人格を失ったと考えたからだ。

私の人格への拘(こだわ)りはマハトマ・ガンジーが残した言葉に由来する。

「信念が変われば、思考も変わる。
思考が変われば、言葉も変わる。
言葉が変われば、行動も変わる。
行動が変われば、習慣も変わる。
習慣が変われば、人格も変わる。
人格が変われば、運命も変わる。」

誰しも自分とは何者か、何のために誰のために生きているのかを常に自問する。そこから信念が生まれ、行動により、人格が作り上げられる。これを人の成長と言う。

人生には教育期、勤労期、引退期がある。自称元慰安婦は貧困や教育制度の不備により、教育期を奪われたまま勤労期に入らざるを得なかった。そして長い勤労期を経て引退期を迎えた時、彼女たちを待ち受けていたのが慰安婦問題だった。

そうした流れを振り返り、私は自分の考えが一面的だったことに気が付いた。彼女たちの長い勤労期に焦点を当てることなく人格を論じていたからだ。

2020年5月7日、李容洙氏が口火を切ったことで、挺対協(現正義連)による慰安婦関連募金や政府補助金の使途が大きな問題になった。一方、彼女は「性奴隷」という言葉に対する嫌悪感を表明した。その後一部有識者は彼女たちの生活に一番必要なのは何だったのかを問い直し始めた。

以上の状況を踏まえ、私は、自戒の意味で、自称元慰安婦の解放後生活を振り返りたい。それが私の懺悔だ。大見えを切ったが、私は朝鮮語ができない。したがってここでは下記資料を参照した。

証言集A:韓国挺身隊問題対策協議会・挺身隊研究会編 『証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち』(1993年、東京、明石書店) 証言者:19人

証言集BI、BII:『証言 未来への記憶 アジア「慰安婦」証言集-南・北・在日コリア編』アクティブ・ミュージアム「女たちの戦争と平和資料館」編 西野留美子・金富子 責任編集 (2006年、2010年、東京、明石書店) 証言者:12人と14人の26人(そのうち5人は証言集Aと重複)

2.証言集に対する疑問

上記証言集は平均すると1人当たり15~18ページの分量になる。信憑性はさて置き、奴隷のような体験は充分書き尽くされている。ただし証言集全般に関し、いくつかの疑問がある。その前提として、証言集Aの巻頭言を下記に抜粋した。(下線は筆者)

〈発刊に当たって〉 尹貞玉挺対協共同代表
 「真相究明が何よりの急務であろう。過去の新聞や公文書から発見される資料はもちろん重要だ。しかしそれにも劣らず重要なのは、元慰安婦たちの証言である。彼女たちは生きている資料だ。…。
 元慰安婦たちに慰安所での体験を聞くことがむごいことだということは承知している。しかしこの問題は…人間の問題である。…。歴史に記録を残さなければならないと思う。」

〈調査に参加して〉 安秉直ソウル大学経済学部教授
「調査を検討するうえで非常に難しかった点は、証言者の陳述がたびたび論理的に矛盾することであった。…。この中でも調査者たちを困らせたのは、証言者が意図的に事実を歪曲していると思われるケースだった。私たちはこのようなケースに対処するために、調査者の一人ひとりが証言者との間に信頼関係を築くことによってそのような困難を克服しようとした。そうして大部分の場合は意図した成果を得ることができたが、どうしても調査を中断せざるを得ないケースもあった。…。一人の証言者に対し大体五、六回以上の面接調査を行った。
この調査に、いたらなかった点がまったくなかったとは断言しない。なぜなら、軍慰安婦の生活のような、人間以下に扱われた経験をありのままにすべてさらけだして証言するということは、誰にでも難しいことであり、またこのような調査を短い期間のうちに行うことも無理があると思うからだ」

2.1. 当初110人が元慰安婦として登録されたが、証言集Aの調査者が実際に話を聞いたのは半数以下の40人で、出版されたのはその中の19人の証言だった。安教授が書いた「論理的矛盾」と「事実の歪曲」が理由だと推測されるが、なぜ110人→40人→19人になったのかを誰も説明していない。除外された91人は元慰安婦ではなかったのか。

2.2. これも事実歪曲に関連するが、自称元慰安婦はなぜ事実を述べようとしなかったのか。同性の調査者は彼女たちとの信頼関係構築に務め、面接を数回実施したのだから、彼女たちの胸襟を開くことは可能だったはずだ。さらに言えば、彼女たちは自分たちの証言が女性の権利を守り、ひいては社会的正義を追求するためだと理解していたはずだ。

2.3.  19人中、6人の元慰安婦は仮名で証言しているが、そのうち5人はなぜ証言集に写真を掲載したのか。

2.4. 証言集Aの5人と証言集Bの5人の証言は一字一句同じものだ。この重複は証言集Aの残り14人に信憑性がないからなのか。

2.5. 証言集の調査者はなぜ慰安婦問題に関する重要事項一覧表を事前に用意しなかったのか。尹氏が書いた真相究明のためには、各証言を項目別に整理することが不可欠だ。これを徹底していれば、各人が慰安婦になった経緯だけでなく、どのような制度の下に戦地で生活していたのかが可視化されたはずだ。しかし調査者が聞き取りを重視した結果、証言集は慰安婦の言い分の羅列になっている。場所や時期が曖昧なままの証言もある。尹氏が述べた「生きている資料」の価値は半減している。

証言集Bは証言集Aより10数年を経た後で編纂されているが、Aの不備をまったく修正していない。この不備との関連で整理者オ・ヨンジュ氏は以下のように述べている(証言集BⅠ、pp. 237-238)。(下線は筆者)

「ハルモニの話はよくまとまったメモを順番通り読んでいくかのように、空間の移動が比較的正確だった。…。ハルモニは四度にわたるインタビューの間、ほぼ類似した枠をくり返し(*た)。…。しかし、一方ではハルモニの定型化された記憶からいかにして抜け出せるのか、そしてその前にハルモニの記憶がどうしてこのように定型化してしまったのかを悩むようになった。…。
 ハルモニの定型化したインタビューの流れを変えるためには、やむを得ず質問を投げかけるしかなかった。質問には事実的な経験を聞くのではなく、ハルモニの全体的な考えを問うもの、あるいはハルモニの感情の状態を聞く内容を盛り込むことに決めた。」

2.6. 証言集A もBも下記重要事項に対する総合的判断をなぜか留保している。

①戦地の軍慰安所と日本が国際法上統治していた朝鮮半島、台湾、満州にあった遊郭、日本国内にあった遊郭(釜山、新竹、吉林、大阪、富山、沖縄)との違い。

②両親や近親者や配偶者による人身売買(金学順黄錦周李用女朴順愛李桂月李玉善)、身分証明書(朴酉年)、年季(韓国在住の李相玉朴順愛)、給料(韓国在住の李相玉朴酉年、金順玉)、貯金や送金(文玉珠朴順愛朴酉年河床淑)、手紙の遣り取り(文玉珠朴頭理吉元玉)、外出時の買い物、観劇など行動の制限(呉五穆文玉珠李得南朴頭理)の有無。

③朝鮮人が慰安婦を仲介し、戦地へ引率し、慰安所を経営していた事例。アーチ—・宮本退役米陸軍中佐は、日本の外務省領事部公文書を引用し、朝鮮人慰安婦を擁する慰安所を運営していたのは朝鮮人で、日本人慰安婦を擁する慰安所を運営していたのは日本人だったと書いている(注2)。

3. 調査の限界と拡大解釈

証言集Aにより、19人の自称元慰安婦は当初名乗り出た110人、最終的に名乗り出た総数の239人、そして一部で主張されている拉致された20万人の慰安婦全員の代表となった。その意味では挺対協の意図は成功した。

日本の報道機関はしばしば世論調査を実施する。信頼区間や信頼水準を考慮し、無作為抽出による2,000人ほどの被調査者(母集団)に対し、通常、5割ほどの回答に基づき、その結果を民意として発表している。

自称元慰安婦の場合、証言集AおよびBの40人は、110人、239人、あるいは20万人を母集団とする女性から無作為に抽出したものではない。したがって、証言内容には当初からバイアス(偏り)がある。つまりその40人は独自に母集団を形成するので、他の慰安婦全員を含めるという拡大解釈をするべきではない。これが調査の限界となる。

自称元慰安婦が語った「人間以下に扱われた経験」については、第三者による供述証拠を欠く自己主張に過ぎない。証言全体を眺めると、彼女たちの多くが悪質な斡旋業者と慰安所・遊廓経営者の犠牲になったと結論するのが妥当となる。

4.解放後の生活

40人の自称元慰安婦は多少なりとも帰国後の生活を語っている。彼女たちの証言には信憑性がある。なぜなら「論理的矛盾」や「事実の歪曲」を実生活に加えても、日本政府を糾弾する補強証拠にならないからだ。

証言集AおよびBの調査者は、面接時の彼女たちの生活状況に少しは留意していたようだ。彼女たちの生活が一般女性と比べてより苦しければ、その現実と慰安婦という過去に因果関係があると結論付けることができるからだ。

4.1. 朝鮮半島の歴史事情

1945年8月、連合国が勝利したことにより、朝鮮半島は日本から解放された。ところが連合国の思惑により、半島は北緯38度線を境に韓国と北朝鮮とに分断された。北朝鮮は全体主義の道を歩み、韓国は民主主義の道へと進んだ。1950年から3年間は全土が戦争に巻き込まれ、1953年には休戦協定が結ばれた。しかし、朝鮮人は自由に南北を往来することができなかった。韓国社会が高度経済成長の道を歩み始めたのは朴正熙大統領が就任してからの1960年代半ばからだ。1970年代には朴正熙大統領が暗殺されたが、1980年代になってから民主化が進んだ。民主化により女性が発言する機会も増えた。

4.2. 慰安婦就業期間と帰国時期および結婚と出産の有無

自称元慰安婦の就業期間と帰国時期および結婚と出産などについての記録を表〈1〉に抜粋した。

4.2.1. 慰安婦就業期間

自称元慰安婦は、人身売買や就職詐欺や金儲けなどの理由で故郷を離れた。慰安所・遊廓にいた期間は、最短だと2カ月から半年、最長だと9年、平均すると3年3カ月ほどだった。祖国解放後、現地にそのまま定住した女性が数人いるが、数十年後に帰国した女性もいる。

4.2.2. 結婚と出産

生涯独身を通した自称元慰安婦の多くは、尹頭理氏や張秀月氏のように自分の処女性や貞淑さを汚(けが)されたことを強く意識している。これは14世紀末より続いた両班による統治と家父長制にも関連する儒教(守節や殉節による夫への貞節と親への考節)で培われたものだと推測される。しかし当時の日本や他の国でも男尊女卑が一般的だったし、女性は貞操観念を持たされていた。

彼女たちの生涯未婚率は8÷40x100=20%となり、現在の日本(2015年の国勢調査資料:男子23.4%、女子14.1%)に比べるとかなり高い。

異郷での経験は必ずしも彼女たちを男性不信にしていない。これは帰国時に彼女たちがまだ若く、周囲から結婚相手を見つけるようにと言われたからのようだ。29人は伴侶あるいは一緒に住む相手を見つけている。

一方、夫婦間の不妊率は一般的に10%くらいだと言われているが、2015年に実施された日本の国立社会保障・人口問題研究所の調査では、29.3%の夫婦が不妊を心配している。数十年前と比較するのは無理があるが、自称元慰安婦の不妊率は8÷29x100=27.5%となる。これらの数値を比べると、1日に20~30人の軍人を相手にしたとされる慰安婦経験が不妊の原因だという即断はできない。11人は1度ならず出産している。

なお、伴侶などの有無に拘わらず、彼女たち12人が養子を迎えて育てている。この事実は、母性本能や社会生活に対する欲求に関わるものだと推測される。解放後の困難な社会情勢の中、この事実は特記するべきだし、社会的に評価されるべきだ。

結婚、妾(愛人)、同棲:29人(慰安婦前の結婚を除く、1人は同居のみ)
独身:8人
不明:3人

出産―11人
不妊―8人(流産1人を含む)
結婚直後に夫が行方不明―1人
不明―3人

養子養育―12人

表〈1〉(*自称元慰安婦の名前の色分けは証言集AとBとでの重複を表示するため)

証言集A

金学順1941年秋までの3カ月。1946年6月帰国:結婚、娘1人息子1人
金徳鎮(仮名―写真):1937年~1940年2月、3月。1カ月後帰国:として息子2人娘1人を養育
李英淑:1939年12月~1945年8月。1946年1月帰国:同棲、不妊、離婚
河順女:1940年(1938年)~1942年。1946年帰国:同棲
呉五穆:1937年~1945年。同年帰国:後妻、不妊、離婚、養女養育
黄錦周 1941年~1945年。同年12月初め帰国:孤児3人養育、独身
文必ギ(王編に基) 1943年~1945年8月。帰国:妾、妹の孫養育
李容洙:1945年1月~8月。1946年春帰国:結婚(89年)、離婚
李玉粉:1942年~1945年8月。1947年帰国:独身
文玉珠1940年~1941年、1942年7月~1945年8月10日。同年帰国:2度結婚、前夫の息子を養子
李順玉(仮名―写真)慰安婦前、戸籍上結婚と離婚:1938年~1944年末。1945年初頭帰国:同棲
李相玉(韓国)(北朝鮮慰安婦と同姓同名): 1936年~1942年、1946年12月帰国:結婚、流産
李得南(仮名―写真)1939年~1942年。1945年秋帰国:妹の子供養育、独身
李用女:1942年~1945年。1946年4月帰国:同棲、不妊、相手の息子を養子
金台善(仮名―写真なし)1944年11月~12月。1945年帰国:同棲、娘2人
朴順愛(仮名―写真): 慰安婦前結婚、息子出産、夫に売られる:1942年~1943年末。1944年1月帰国:解放後再婚、子供3人
崔明順(仮名―写真):1945年1月~7月。同年末帰国:結婚、息子出産:再婚、娘3人息子1人
姜徳景1944年秋~1945年8月。慰安婦中、出産:1946年1月帰国:独身
尹頭理:1943年9月~1945年8月、その間は釜山:独身

証言集BI

朴永心(北朝鮮):1938年8月~1944年9月。解放後(?)北朝鮮へ :結婚、不妊、孤児養子
宋神道:慰安婦前結婚、慰安婦中4人出産:1938年~1945年。解放後宮城に:男性と同居
金学順
李桂月(北朝鮮):1937年~1939年3月。1940年末(?)北朝鮮へ:独身、養子
郭金女(北朝鮮):1939年秋~1941年11月。解放後故郷には戻れず北朝鮮へ:結婚、子供1人
朴頭理: 1940年~1945年。同年帰国:妾、本妻、息子1人娘3人
金英淑(北朝鮮):1940年~1945年春。1946年北朝鮮に帰国:結婚、不妊
黄錦周
朴玉善:1941年~1945年。解放後、朝鮮族部落へ、2001年帰国:結婚、娘1人息子1人
李玉善:1943年~1945年。2000年帰国:結婚直後、夫行方不明
文必ギ
姜徳景

証言集BⅡ

朴酉年:1939年8月~1945年。1946年3月帰国:同棲、息子1人、養女数人、再同棲
沈達蓮:1939-40年~1945年。(?)年帰国:不明
吉元玉:1940-41年~1945年(一時帰国在り)。解放後帰国:結婚、家出、歌のファンと同棲、養子
文玉珠
張秀月(北朝鮮): 1941年9月~1945年6月。解放前帰国:独身
金福童:1941年~1945年。解放後帰国:結婚、不妊、再婚
金君子:1942年3月~1945年。解放後、38度線を越え、帰国:同棲
金ソラン:1944年~1945年。解放後帰国:結婚、息子3人、離婚、再婚、中絶6回
李相玉(北朝鮮):1943年~(?)年逃走、解放後北朝鮮へ:不明
姜日出:1944年~1945年。解放後、吉林に住み、2000年帰国:結婚、息子1人、再婚、娘1人息子2人
李宗女(北朝鮮)1943年7月~1945年。解放後生活の言及なし:不明
裴奉奇:慰安婦前、2度結婚:1944年~1945年3月。以後沖縄に住む、独身
河床淑:1944年5月~1945年。解放後中国在住:同棲、不妊、同棲、結婚、不妊
金順玉:1943年~1945年(?)。解放後中国在住、2005年帰国:結婚、娘2人息子1人再婚、娘2人、男子養子。

4.3. 職業

現地に残った女性を除き、自称元慰安婦のほとんどは帰国直後に故郷へ帰った。実家に両親などが健在だった場合もあり、行方不明だった場合もある。無一文では帰省できないと考え、釜山や仁川に上陸後、就職した例もある。多くの女性は職業を転々と変えているが、一カ所に定着し、成功した例もある。他人の保証人となり、築き上げた財産を失った例もある。結婚、妾、養女、後妻、同棲により、家事に専念した女性も数人いる。彼女たちは混乱の時代を必死に生き抜いて1990年代を迎えた。批判を受けるのを承知で言うが、彼女たちの生き様(ざま)は称賛に値する。

彼女たちが従事した職業は以下の通りだ。

アヘン売買、アメリカ製品販売、衣料品行商、飲食店経営、飲食店従業員、貸金業、家事手伝い(家政婦)、歌手、看護師、妓生、木こり、協同組合・協同農場従業員(北朝鮮)、下宿屋営業、工場務め、魚売り、酒造り、雑貨屋経営、女中、畑仕事、米軍相手の慰安婦、保険勧誘員、密輸品売買、野菜売り、屋台営業、闇ドル商売、養蚕、旅館経営など

補足だが、韓国在住の自称元慰安婦の9人は調査時点で生活保護を受けている。北朝鮮在住の6人うち、少なくとも2人は同様の保護を受けているようだ。

5. 人生に対する述懐

以下に抜粋したのは自称元慰安婦数人の人生に対する考え方だ。惜しまれるのは、調査者が彼女たちの人格を描こうとしなかったことだ。それらしい記述は多くても数行ずつしかない。彼女たちの強固な意志と長い経験に裏打ちされた考え方は、人生に関する卓越した知見を老若男女に与えたかもしれない。(下線は筆者)

金徳鎮: 「日本も悪いけれど、その手先をした朝鮮人はもっと憎い。韓国政府に言いたいことがたくさんあります。韓国政府も私たちに補償してくれなければなりません。」

李英淑:「日本人だけでなく、朝鮮人も自分が生きて行くために人を踏みつけてきたのだから、悪いのは同じだと思います。…。補償が出ようと出まいと関係ありません。いつ死ぬかわからない身だからです」。

黄錦周:「いまからでも、他人から無視されずに残された人生を、苦しい人達の手助けをしながら、他人の世話にならずに生きて死ねたらと願っています」。

李得南:「人間は、持って生まれた運命に順応して生きればいい。それ以上望みを大きくして欲張ると、今の幸せも逃してしまう。私にはもう大きな望みはありません。昔は大変激しい性格でしたが、若い人生をあのような場所で生きてきたので、今は人と会うのも怖いし、ただ静かに一人でいたいです。」

金台善:「すべて先祖たちの罪悪の性だと思います。生まれた国があまりにも貧しかったからでしょう。私が当時(若い時)結婚していたとしても、慰安婦になっていたかもしれないし、そんな時代に生まれたのが私の運命だと思います」。

朴順愛:「私はこれから先、祖国が発展するのに少しでも役立てばと願って申告したのでした。私たちの民族が二度と他の国の奴隷になってはいけないのです。」

尹頭理:「もう一度女に生まれ変わりたい。今のようにいい世の中で、いい両親のもとで勉強をいっぱいして、いい人のところに嫁に行き子どもを産みたい。」

沈達蓮:「うちの仏さまはほんとに霊験あらたかなんですよ。それで、私は毎日に、知恵が浮かぶようにしてくださいますよ、ご本尊様がなんとかして人間になるようにして下さって、他の人ともいっしょに付き合っていけるようにして下さるから、毎日すごせるんです。」

吉元玉:見知らぬ女性が産んだ子を養子にしたことについて、「息子に神学大学の大学院まで行かせた。天のお父様に感謝」。

金ソラン:「(今の夫)は大学も卒業していました。(姉を通じ、過去を打ち明けた後)それでも私がいいって言ってくれたのです。〝過去のことなのに、何が問題なのか〟と。私は心の中で〝本当に勉強した人は違うんだな〟と思いました。」

姜日出:「従軍慰安婦は金を稼ぐために行った我々は強制的に無理やり連れて行かれた慰安婦。」

河床淑:「私は1962年から10年ちょっと前まで、紡績工場で働いた。仕事を模範的によくやると新聞にも出た。中国人の工場で、ちょっとでも仕事ができなければ、朝鮮人は仕事もできないといわれるからと思って、熱心に働いた。1992年には、和やかなよい家庭だという賞ももらった。」

(補足)姜徳景:1992年、ナヌムの家に入居後、絵画に手を染める。

6. 挺対協の方針と考察

挺対協には日本を糾弾するという大義名分があるので、自称元慰安婦個々人の生活は二の次だったかもしれない。しかし先に述べたように、9人が生活保護を受けていた。研究者の多くは、「その事実こそ彼女たちの過去に起因する。だからその原因を作った加害者に正義の鉄槌を下さなければならない」と主張するだろう。挺対協による鳴り物入りの運動は実際に彼女たちの境遇を改善したのだろうか。募金の一部を彼女たちに支給し、支援施設ナヌムの家を提供しただけで彼女たちは満足したのだろうか。

同施設職員の矢嶋宰国際室長は、2020年5月28日、共同通信に対し、「ナヌムの家が、寄付金を入居する被害者のために使っていない」と内部告発している。その矢嶋氏は、2005年、入居者に関する興味深い観察を小論に書いている(証言集BI、pp. 255-257)が、これを境遇の改善とは言わない。

 「(9人しかいない自称元慰安婦同士で)お互いの意地をかけた口喧嘩が展開される。私に言わせれば、普通(そこらにいる普通のおばあちゃん)どころかその何倍も姑息で欲深でめったなことではへこたれない、怖いものなし揃いだ。人間だれしも裏と表の顔を持っているわけだが、ここの女性たちが見せる裏の顔は一緒にいるものをとてつもなく不快にさせると同時に、愉快にもしてくれる」

本来、挺対協の運動方針の柱は、

(1)日本政府の責任を追及し、謝罪させ、損害を賠償させる、
(2)自称元慰安婦の生活を物心両面で支援する、

で、その2つは荷車の両輪として推進されるべきものだった。

挺対協は彼女たちを国内の水曜デモなどに参加させたり、国外で慰安婦碑や慰安婦像関連の行事に参加させたり、議会などの証言台に立たせたりした。たしかに彼女たちの体験を公けにすることで、日本を含め、世界に人権侵害を訴えることはできた。(1)はほぼ成功している。

慰安婦問題について鄭鎮星ソウル大学教授は、『被害者のための〝具体的な〟解決策を求めて』という小論で、「(慰安婦)制度を産出した社会的条件である戦争と民族差別、家父長制をなくすことがより根本的な解決策になるだろう」と述べている(証言集BⅡ、pp. 381)。

鄭教授が述べたやや抽象的な3つの要因を簡単に考察する。①戦争とは人類普遍の利害の衝突から発生するので、地政学的観点からは必ずしも日本だけに非があるわけではない。②民族差別とは日本が朝鮮半島を植民地化したことに起因するもので、日本人に対し、朝鮮人を二級市民として扱ったことに対する批判だ。近世の植民地帝国主義の下、西洋諸国はどこにおいても現地人を搾取した。この事実は日本の免罪符にはならない。③家父長制度は近代まで国を問わず存在していた。殊に朝鮮半島の場合、同制度は5世紀にもわたる李朝時代の遺産として大きな影響を朝鮮人に与えてきた。この要件を日本の責任だとするのは妥当ではない。蛇足になるが、慰安婦制度は朝鮮半島が起源ではなく、江戸時代からの売春制度が発展したものとして認識する必要がある。

以上の事柄を勘案すると、鄭教授の解決策は挺対協が将来取り組むべき課題だと解釈される。したがって彼の持論を(1)と同列に置いて捉えるべきではない。

では(2)はどうか。内面的欲求や生活安定に関する限り、挺対協は引退期を迎えていた彼女たちを満足させてきたとは言い難い。彼女たちの行動や意思決定にまで干渉し、彼女たちを偶像化させることで自我を引き裂いた。言い換えると、彼女たちは言論人に利用されるだけの道具になり、人生に対する自分自身の知見を誇りに思うような機会は与えられなかった

誠実な人と不誠実な人、双方ともに歴史に名を連ねはする。世間が評価するのは前者で、後者ではない。挺対協は判断を誤り、拭いきれない汚点を残した。現時点で今回の不正経理騒動がどう落ち着くかは不明だが、挺対協を引き継いだ正義連は、どのような形にしろ、出発点に戻り、(2)を再考し、具体策を講じなければならない。時間はない。

「真実」には心地良い響きがあるけれど、「真実の糊塗(こと)」はいただけない。

最後に断っておく。人権侵害行為に対しては責任の所在を追求しなければならない。朝鮮女性が慰安婦として戦地で働くことになったのは、日本政府が朝鮮半島に公娼制度を導入した1916年以降、戦域を拡大したことによる。同制度は慰安婦の権利を保護するために慰安所経営者にいくつかの義務を負わせているが、制度自体は人身売買を間接的に認めるものだ。したがって当時の日本政府に落ち度がなかったとは言えない。しかし、今日的な観点から同制度を批判するのは妥当ではない。自称元慰安婦が語った「人間以下の扱い」については、貪欲な慰安所・売春宿経営者による不法行為を追及するのが妥当だ

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注1:『慰安婦(公娼)関連用語―解説』(2019年4月)、『映画「主戦場」について』(2020年3月)、『Korean Puzzle』(2020年4月)、『正義連騒動の展開』(2020年6月)、『自称元慰安婦、李容洙氏の叫びとは』(2020年6月)

注2:Miyamoto, Archie. (2017). Wartime Military Records on Comfort Women. 2d Edition. Amazon Fulfillment, pp. 37-39

Life of the Self-Proclaimed Comfort Women after Motherland Liberation

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July 30, 2020

Hidemi Nagao

( Former Civil and Media Liaison Officer of the Commander U.S. Naval Forces, Japan, Novelist and Non-fiction Writer )

Life of the Self-Proclaimed Comfort Women after Motherland Liberation

  1. Repentance

I would like to repent my unilateral preconception.

It has been several years since I got interested in the comfort women issue of the wartime.  When I read books of hilarious episodes written by Seiji Yoshida and Kako Senda, the Asahi Shimbun, a Japanese daily, had already retracted over a dozen articles regarding Yoshida’s fictions.  I, therefore, did not side with a claim that the Japanese authorities had abducted 200,000 women to make them work as sexual slaves in warfront.  Though I dare not deny some cases in which brokers trafficked women from both Japan and the Korean Peninsula to warfront.  I consider the cases as exceptions in the days when the prostitution license system was in place.

I authored a few books and opinion pieces since early 2019 in which I specifically discussed personality of the self-proclaimed comfort women in Korea.1  It is because I thought they had their “self” divided and lost their personality by becoming a group icon of the human rights violation issue.

My focus on personality of those women derives from what Mahatma Gandhi said about one’s belief and personality.

“Carefully watch your thoughts, for they become your words.  Manage and watch your words, for they will become your actions.  Consider and judge your actions, for they have become your habits.  Acknowledge and watch your habits, for they shall become your values.  Understand and embrace your values, for they become your destiny.”

Ordinary people always question themselves who they are and for what and for whom they live.  The struggle of questioning makes them strengthen their belief, which translates into action and builds personality.  This is what personal growth is about.

Life of people begins with a period of education and proceeds to a period of work prior to reaching a period of retirement.  The self-proclaimed women had to enter the period of work, being deprived of a full period of education partly due to family poverty and partly due to the inadequate education system.  What awaited them in the period of retirement—after the long period of work—was the comfort women issue.

As I reflected on a span of their life, I have realized that my thoughts were unilateral.  For, I discussed their personality without paying any attention to their long period of work.

On May 7, 2020, Lee Yong-soo broke the ice, which led to uncovering of dubious spending practices of the Korean Council for Women Drafted for Military Sexual Slavery by Japan (Korean Council hereinafter) regarding comfort women donations and government subsidies.  Lee also publicly said she had detested the pronominal phrase, “Sexual Slave.”  A while later, some intellectuals began to question anew what those women truly needed for their life.

Based on the circumstances above and my carelessness, I will review the life of the self-proclaimed comfort women after the liberation of their homeland.  This is what I meant by repentance.  Problem is I cannot read or speak the Korean language though I have just made a solemn pledge.  To compensate for my inability, I carefully review herein translated versions of those women’s testimonies that are contained in books below.

Book A: The Korean Council for the Women Drafted for Military Sexual Slavery by Japan and the Study Committee on the Volunteer Corps (Ed.). (1993). “Shogen: Kyosei Renko Sareta Chosenjin Gun Ianfu Tachi” [Testimonies of comfort women forcibly taken by the military] (author translation). (The Uri-Yeoseong Network on Military Comfort Women Issues, Trans.). Tokyo. Akashi Publishing.  Book A contains 19 testimonies.

Book BI and BII: Nishino, Rumiko & Kim, Puja. Women’s Active Museum on War and Peace (Ed.) (2006, 2010). “Shogen: Mirai heno Kioku Asia ‘Ianfu’ Shogenshu Parts I & II—Minami-Kita Zainichi Koreans” [Collection of Witness Statements of Asian Comfort Women, Memories for Future Regarding North and South Korea and Japan] (a/t). Tokyo. Akashi Publishing.  Book BI and BII contains 26 testimonies, 5 of which are copied from Book A.

  1. Questions to Books A and BI & BII

Each testimony is about 15 to 18 pages long on the average.  The experiences of the self-proclaimed comfort women, as sexual slaves, are fully detailed, regardless of the credibility of the testimonies.  I have a few questions about them.  I provide the following excerpts as a premise of my misgivings (underlined by author).

Yun Chung-ok, Co-representative of the Korean Council, wrote in Preface of Book A (author translation, a/t hereinafter):

“It is urgent for us to reveal the whole truth.  Materials found in newspapers and official documents are certainly important, however, testimonies of the former comfort women are no less important than those materials.  They are living witnesses of those days with both physical and mental disorders.  …  We are aware how difficult it is for them to reveal what really happened at comfort stations.  But the issue we have on hand is a serious matter that pertains to human beings.  …  I think we must get their life stories down on paper.”

Professor An Byeong-jik of the Economic Faculty of the Seoul University wrote in Forward also in Book A (a/t):

“While reviewing investigation results, we found it most difficult to reconstruct one’s testimonies because what she had said was oftentimes logically contradictory.  …  The most annoying thing the investigators experienced was when they noticed the interviewees intentionally distorting facts.  To overcome such cases, each of us tried hard to build confidence with each interviewee.  Our efforts were rewarded in most cases, however, there were cases in which investigators had to quit interviewing halfway through.

              We conducted an interview more than five or six times for each woman.

              I do not claim our investigations are flawless.  For, as in the case of comfort women, I think it difficult for anyone who was treated as a subhuman to narrate everything she had gone through.  I also think it impossible for us to complete investigations in a short time (*underlined by author).”

2.1.        Investigations of Book A heard stories of 40 women though as many as 110 women were registered as former comfort women in the early days.  The Korean Council published testimonies of only 19 women.  This may be attributable to “logical contradictions” and “intentional distortions of facts” Professor An mentioned.  No one, however, explained why the published accounts were reduced from 110 to 40 to 19.  Does it mean the rest, 91, were not comfort women?

2.2.        This question also relates to the “intentional distortions of facts.”  Why did those women dare not tell facts?  Having female investigators interview them, building confidence with them, and holding interviews more than a few times should have made it possible for them to come out of their shell.  Besides, they knew their testimonies were supposed to protect women’s rights and, furthermore, pursue social justice.

2.3.        Six of the 19 women used pseudonyms in Book A.  Why did five of them have their photographic portraits shown on the first page of their testimonies?

2.4.        Five testimonies in Book B are copied, word for word, from Book A.  Does it mean 14 others in Book A are not trustworthy?  Either way, the total number of the women in both Book A and Book BI and BII is not 45 but 40.  It must be noted there are two different women whose names are identical.

2.5.        Why did the investigators not prepare a list of key issues in advance?  It is vital to reveal the whole truth—as Professor Yun mentioned—by organizing key issues by category.  Putting things in order would have visualize not only the how and why the women became comfort women but also the how and under what system they made a living at each comfort station in warfront.  It is unfortunate that the testimonies portrayed a litany of complaints because the investigators were merely in listen-only mode toward the women.  There are cases in which time and place remained unknown.  The significance of the “living witnesses” emphasized by Professor Yun did not bear fruit, if not wasted.

Books BI and BII compiled more than a decade after Book A was published did not correct the inadequacy of systematic approaches observed in Book A.  As for the inadequacy mentioned above, O Yon-ju, one of the editors, made the following comment (Book BI, pp. 237-238) (*underlined by author).

“Stories I heard from a halmoni (*grandmother in Korean) sounded like reading a prepared statement written in a concise and orderly manner.  She narrated each event, following closely the passage of time.  I interviewed her four times; she repeated her accounts almost in the same way.  In the meantime, her memories began to bother me because they had been fixed in a certain pattern.  I sort of struggled to find out means to make her talk about other things.

              I was compelled, during an interview, to ask questions to change the set flow of her thoughts.  Giving up listening to her experience, I decided to start questioning her about general ideas of things or about her emotional conditions.”

2.6.        Both Books A and BI and BII failed to make a comprehensive conclusion to the key issues listed below.

(1) The difference between comfort stations in warfront and brothels in Korea, Taiwan, Manchuria—which were internationally recognized as under Japanese rule—and Japan.  Those in the latter were Pusan (Korea), Hsinchu (Taiwan), Jilin (Manchuria), and Osaka/Toyama/Okinawa (Japan).

(2) The presence or absence of the following matters: trade of women by parents, family members, or husbands (Kim Hak-sun, Hwang Geum-Joo, Lee Yong-nyeo, Park Sun-e, Lee Gye-wol, Lee Ok-pun); identification papers (Park You-nian); term of employment (Lee Sang-ok of South Korea, Park Sun-e); earnings (Lee Sang-ok of South Korea, Park You-nian, Kim Sun-ok); savings and transfer of money home (Moon Ok-chu, Park Sun-e, Park You-nian, Ha Sang-suk); exchange of correspondence (Moon Ok-chu, Park Do-ri, Gil Won-ok); and liberty restrictions such as going for shopping and watching movies (O O-mok, Moon Ok-chu, Lee Tok-nam, Park Do-ri).

(3) Those cases in which the Koreans brokered and accompanied Korean women to warfront and ran comfort stations for themselves.  As Lt. Col. Archie Miyamoto, Lt. Col. of the U.S. Army (Ret.), wrote by referencing Japan’s Foreign Ministry consulate documents, it is the Koreans who managed comfort stations with Korean women while it is the Japanese who operated comfort stations with Japanese women.2

  1. Limitations of the investigations and stretched interpretations

Commercial publication of Book A brought about a result that 19 women represented 110 women who stood up at the beginning, 239 women who were officially registered by the South Korean government, and finally 200,000 women whom more than a few individuals and groups claim.  In this sense, the Korean Council achieved its objective.

The Japanese mass media often conduct public opinion polls.  They normally consider confidence interval and confidence level of a population, randomly contact approximately 2,000 persons, and come up with representative opinions based on the collect responses from 50% or so of the surveyed,

In the case of the self-proclaimed comfort women, the 40 women in Books A and BI and BII are not randomly sampled from a population of, say, 110, 239, or 200,000.  Their testimonies, therefore, contain sample coverage bias.  Because those 40 women independently comprise the whole population for themselves, it should not be stretched to interpret that they are a part of all other comfort women.  What it points to is the limitation of the investigations.

As for the stereotypical statement of those 40 women that they had been treated as subhuman, it should be merely interpreted as their claim because of lack of testimonial evidence provided by third parties.   It is, therefore, appropriate—from the vantage point of a big picture—to conclude that many a woman in Books A and BI and BII fell victim to malicious brokers and operators of comfort stations/brothels.

  1. Life of the self-proclaimed comfort women in post-liberation days

Those 40 women gave, in a greater or lesser degree, their accounts of life after the Korean Peninsula was liberated.  There is no reason to question the credibility of their accounts.  For, adding the “illogical contradictory statements and distortion of facts” to their post-liberation days would not serve as any corroborating evidence to accuse the Japanese government.

The investigators seem to have paid some attention to the women’s life at the time of the interviews.  Their assumption was probably that those women were living a life tougher than common women were because of their sufferings in the past.

4.1.        Historical background of the Korean Peninsula

The Allied Powers defeated Japan in August 1945, which liberated the Korean peninsula from Japan’s rule.  The conflicts of interest of the Allied Powers, however, divided the peninsula into South Korea and North Korea over the 38th parallel.  North Korea proceeded under the totalitarian regime while South Korea tried to build a democratic system.  The Korean War broke out and continued for three years from 1950 till the armistice agreement was signed in 1953.  The Koreans, as a result, could not freely cross the north-south border.  It was since mid-1960s when South Korea began to enter a high economic growth period under President Park Chun-hee.  Though the president was assassinated in 1970s, the nation was committed to democratization from 1980s.  The democratization provided women with opportunities to voice their opinion.

4.2.        Periods as comfort women, time of returning home, and marriage and childbirth

Table (1) below shows testimonial data of the periods as comfort women and the year they returned home as well as their marriage and childbirth.

4.2.1.    Periods as comfort women

The self-proclaimed comfort women left home after being traded for money, by deception, or for making money.  The periods they were at comfort stations or brothels vary from two months to a half year for the shortest, nine years for the longest, with the average of approximately three years and four months.  More than a few of them stayed where they were after the motherland liberation, some of whom got repatriated decades later.

4.2.2.    Marriage and childbirth

Most of the women who stayed single were strongly ashamed of their blemished virginity and chastity as Yun Do-ri and Jang Soo-wol narrated.  Their belief is probably nurtured by Confucian values to respect one’s husband and parents that had been prevailing since the days of Joseon Dynasty which was characterized by the Yangban class and patriarchy.  Misogyny, however, was generally observed both in Japan and other nations while chastity was imposed upon women.

Those who stayed single were 20% of the total women (8÷40╳100).  This rate seems to be higher in comparison of Japan’s national census statistics of 2015: Men is 23.4% and Women 14.1%.

Their enduring hardships under foreign sky did not necessarily make them distrust for men.  Those women were young when they returned home.  Quite a few of them were encouraged by their families and neighbors to get married.  29 women found their spouses or partners to live with.

As for an infertility rate among couples, it is generally believed to be about 10%.  A 2015 survey done by Japan’s National Institute of Population and Social Security and Research indicates as many as 29.3% of them were concerned about their infertility.  It may not be appropriate to compare the situation of decades ago to today, those women’s infertility rate comes to approximately 27.5%.  This rate does not draw a quick conclusion that their infertility is attributable to their employment practice; most of them claim they had tended to as many as 20 to 30 men a day.  Yet, 11 of them had become pregnant and delivered babies more than once.

12 of them adopted children regardless of the presence of partners.  It is believed to be attributable to their maternal instinct and their want of a social life structure.  That fact should be understood as noteworthy and socially commendable despite the social turmoil they went through after the liberation of the motherland.

Married, concubine, or cohabitation: 29 (excepting marriages prior to becoming comfort women; one of them only lived with a partner)

Single: 8
Unknown: 3

Childbirths: 11
Infertile: 8 (including one miscarriage)
A husband went missing immediately after marriage: 1
Unknown: 3

Adoption of children: 12

Table (1)

Book A:

  1. Kim Hak-sun: For 3 months till fall of 1941; married, one daughter and one son; returned home in June 1946
  1. Kim Tok-jin: 1937-1940 (February or March); returned home a month or so later; concubine, two sons and one daughter
  1. Lee Yon-suk: 1939 (December)-1945 (August); returned home in January1946; co-habitation, infertile, divorced
  1. Ha Sun-nyeo: 1940 (or 1938)-1942; returned home in 1946; co-habitation
  1. O O-mok: 1937-1945; returned home in 1945; married to a widower, infertile, divorced, adopted a girl
  1. Hwang Geum-Joo: 1941-1945; returned home in early December 1945; single, adopted three orphans
  1. Moon Bil-gi: 1943-1945; returned home in August 1945; concubine, reared younger sister’s grandchild
  1. Lee Yong-soo: 1945 (January)-1945 (August); returned home in 1946; married in 1989, divorced
  1. Lee Ok-pun: 1942-1945 (August); returned home in 1947; single
  1. Moon Ok-chu: 1940-1941, 1942 (July)-1945 (August); returned home in 1945; married twice, adopted the former husband’s son
  1. Lee Sun-ok: Married and divorced before 1938, 1938-1944; returned home in early 1945; cohabitation
  1. Lee Sang-ok: 1936-1942; returned home in December 1946; married, miscarried
  1. Lee Tok-nam: 1939-1942; returned home in 1945; Single, adopted younger sister’s child
  1. Lee Yong-nyeo: 1942-1945; returned home in April 1946; cohabitation, infertile, adopted her partner’s son
  1. Kim Te-son: 1944 (November-December); returned home in 1945; cohabitation, two daughters
  1. Park Sun-e: Married and delivered a son before 1942, traded by her husband; 1942-end of 1943; returned home in January 1944; married, three children
  1. Choi Myong-sun: 1945 (January-July); returned home in 1945; married, one son, remarried, three daughters and a son
  1. Kang Duk-kyung: 1944 (fall)-1945 (August); one child before 1945; returned home in January 1946; single
  1. Yun Do-ri: 1943 (September)-1945 (August); did not leave Pusan; single

Book BI:

  1. Park Yong-sim: 1938 (August)-1944 (September); returned to North Korea; married, infertile, adopted an orphan
  1. Song Sin-do: Married before 1938, four children before 1945, 1938-1945; went to Miyagi, Japan; lived with a partner
  1. Kim Hak-sun (*mentioned earlier)
  1. Lee Gye-wol: 1937-1939 (March); returned to North Korea at the end of 1940; single, adopted a child
  1. Kak Kim-nyeo: 1939 (fall)-1941 (November); went to North Korea; married, a child
  1. Park Do-ri: 1940-1945; returned home in 1945; concubine, married later, a son and three daughters
  1. Kim Yon-suk: 1940-1945 (spring); returned to North Korea in 1945; married, infertile
  1. Hwang Geum-Joo (*mentioned earlier)
  1. Park Ok-son: 1941-1945; went to north of North Korea; married, a daughter and a son; returned home in 2001
  1. Lee Ok-son: 1943-1945; returned home in 2000; immediately after marriage, her husband went missing
  1. Moon Bil-gi (*mentioned earlier)
  1. Kang Duk-kyung (*mentioned earlier)

Book BII:

  1. Park You-nian: 1938 (August)-1945; returned home to North Korea in March 1946; cohabitation, a son, adopted a few girls, cohabitation again
  1. Sim Dar-om: 1939-1940, 1940-1945; returned home later; unknown
  1. Gil Won-ok: 1940-1941, 1941-1945; returned home after 1945; married, left home; cohabitation, adopted a child
  1. Moon Ok-chu (*mentioned earlier)
  1. Jang Soo-wol: 1941 (September)-1945 (June); returned home in North Korea before August 1945; single
  1. Kim Bok-dong: 1941-1945; returned home after August 1945; married, infertile, re-married
  1. Kim Gun-ja: 1942 (March)-1945; returned home after August 1945; cohabitation
  1. Kim Sol-an: 1944-1945; returned home after August 1945; married, three sons, divorced, re-married, six abortions
  1. Lee Sang-ok: 1943-fled before 1945 (?); lived in North Korea after 1945; unknown
  1. Kang Il-chul: 1944-1945; lived in Jilin after August 1945; married, a son; re-married, a daughter and two sons; returned home in 2000
  1. Lee Jong-nyeo: 1943 (July)-1945; lived in North Korea after August 1945; unknown
  1. Pei Pong-gi: Married twice before 1944; 1944-1945 (March); lived in Okinawa thereafter; single
  1. Ha Sang-suk: 1944 (May)-1945; lived in China after August 1945; cohabitation, infertile, cohabitation again, married, infertile
  1. Kim Sun-ok: 1943-1945 (?); lived in China after August 1945; returned home in 2005; married, two daughters and a son; re-married, two daughters, adopted a boy

4.3.        Occupations

Almost all self-proclaimed comfort women returned home in the Korean Peninsula after the motherland liberation, excepting a few who stayed under foreign sky.  Some found their families at home while others discovered they were gone.  A few of them took up jobs after landing in Pusan and Inchon to bring home some money.  Many of them changed jobs frequently.  Some of them seriously succeeded in their business by settling down in one place.  One lost her fortune later as she became a debt guarantor for a friend.  Many a woman took up homemaking after finding her partner.  It is true that they got through painful hardships up until 1990s.  I dare say, at the risk of offending some people, the way they lived deserves great praise.  Following is a list of occupations they had.

Trafficking heroin, contraband, and U.S. dollars; selling American commodity goods and insurance policies; peddling clothes, fish, and groceries; running pubs, restaurants, a general store, a boarding house, food stalls, and an inn; working as employees of pubs, restaurants, factories, farms, and cooperative farms; becoming housemaids and live-in housemaids, a singer, a nurse, Kisaeng, a lumberjack, and a prostitute for U.S. troops.

A sidebar comment is nine of the South Koreans were welfare recipients at the time of the investigations.  Two of the six who live in North Korea seem also to be on welfare.

  1. Memories of their life

Provided below are several comments the self-proclaimed comfort women made toward life.  It is regrettable the investigators failed to characterize the women’s personalities.  Relevant descriptions not longer than several lines.  Their thoughts, endorsed and enriched by strong will and long experience, might have provided men and women of all ages with valuable insights. (*Underlined by author)

Kim Tok-jin: “The Japanese should be blamed but I hate much more those Koreans who became their pawn.  I have a lot to say to our government, which must compensate for us.”

Lee Yon-suk: “Not only the Japanese but also the Koreans trampled one another to go on living.  Both are to be blamed.  …  I am not concerned about getting reparations.  For, I may go away tomorrow.”

Hwang Geum-Joo: “My wish is to live an independent life until the end while not being ignored by others and at the same time offering assistance for the people in hardship.”

Lee Tok-nam: “People are supposed to live by accepting their fate.  They will lose happiness of today if they have eyes bigger than one’s stomach.  I no longer entertain a big dream.  When I was young, I had a bad temper.  Because I spent my younger days there (*Southeast Asia), I am reluctant to meet people.  All I want now is to lead a quiet life.”

Kim Te-son: “I think that all the sufferings are attributable to sins of our ancestors.  It is because of the poverty of our country in which we were born.  Even if I was married when I was young, I might have become a comfort woman in one way or another.  It is fate that I was born in those days.”

Park Sun-e: “I made public my past experiences because I thought it would be of service to my country.  Our people must never be enslaved by a foreign country again.”

Yun Do-ri: “I would like to be born again as a woman.  It would be nice for me to study hard under the good care of parents, to get married to a good man, and to bear a child.”

Sim Dar-om: “The Buddha statue on the altar truly evokes a profound sense of wonder.  It gives me everyday wisdom of this and that.  I can live a good life day after day because the Buddha makes me act like a human and gives me an opportunity to get along with other people.”

Gil Won-ok: About her adoption of a boy a stranger gave a birth to, “I am deeply indebted to Lord for my son whom I raised to make him go to the graduate school of a college of theology.”

Kim Sol-an: “My (*second) husband is a college graduate.  He said he would not mind it (*after I had my elder sister disclosed my past to him).  He said what had happened in the past would not matter any longer.  I thought in my heart that one who studied hard are different from others.”

Kang Il-chul: “Those licensed prostitutes went to warfront to earn money.  We were forced to go there.”

Ha Sang-suk: “I worked at a cotton-spinning company in China from 1962 to about ten years ago.  I was mentioned in the newspaper as a model employee.  I worked hard because I did not want the Chinese to consider the Koreans were incapable of doing work.  I was awarded in 1992 for having a happy family.”

A sidebar comment:  Kang Duk-kyung studied painting after she moved in the House of Sharing in 1992.

  1. The Korean Council policies and a personal comment

The personal life of those self-proclaimed comfort women was probably a secondary matter for the Korean Council that had a social cause to criticize Japan.  As mentioned earlier, nine of those women were on welfare when their testimonies were published.  Many researchers would probably lose no time in asserting, “It is their experience of the past that brought about their welfare status of today.  That is why a hard blow of justice must be delivered to the perpetrators.”  Have the council’s campaigns with great public fanfare really improved their circumstances?  Had rationing a portion of the donated money and setting up the House of Sharing sufficiently satisfied those women?

Tsukasa Yajima, the House’s employee in charge of international affairs, blew the whistle to the Kyodo News on May 28, 2020 that the donated money had not properly been used for the women in the house.  He wrote in 2005 an interesting observation about the life of nine women as follows (Book BI, pp. 255-257).  What Yajima narrated is, in no way, a case of improvement of their situations.

“A verbal brawl takes place among them over small things, which is the clash of their egos.  Visitors who come to the House often comment each woman appears like any ordinary grandma.  I would say all of them are fearless and greedy, not to mention making underhanded tricks more than anyone else does.  It is true everyone is two-faced.  But when you encounter the women’s hidden nature, you would find them extremely uncomfortable and musing, at the same time.”

At the beginning, the Korean Council campaigns were supposed to consist of the two pillars below, which operated as the two wheels of a cart.

(1) To pursue actions to demand Japan to take responsibilities for the comfort women

(2) To provide psychological and material support for those women

The Korean Council encouraged those women to take part in the Wednesday demonstrations in the nation, took them overseas to attend unveiling ceremonies of comfort women cenotaphs and statues, and arranged them to take the congressional and assembly witness stands.  It is true that the council, by making public the women’s past, could appeal human rights violations not only to Japan but also to the world.  The pillar (1) has been partially successful.

Concerning the comfort women issue itself, Professor Chin Sung-Chung of the Seoul University said as follows in an opinion piece titled ‘In Seeking Concrete Solutions for the Victims’ (Book BII, pp. 381).

“It is the social conditions of war, racial prejudice, and patriarchy that brought forth the comfort women system.  Eliminating them will be the fundamental solution to the problem.”

The three factors Professor Chin mentioned—metaphysical in some way—are concisely reviewed: (a) War breaks out of conflicts of interest as history has seen.  Therefore, it is not necessarily rightful to blame Japan alone from a geopolitical point of view.  (b) The racial prejudice Professor Chin mentioned is a criticism against Japan that colonized the Korean Peninsula and treated the Koreans as the second class citizens for the Japanese.  The Western Powers exploited local people wherever they were in the modern age of colonial imperialism.  This fact would be no excuse for Japan.  (c) Patriarchy continued in every corner of the world into modern times.  It exerted profound influence especially over the Koreans as a legacy of the Yi Dynasty rule for five centuries.  It is not quite reasonable to blame Japan for patriarchy.  It goes without saying that the comfort women system did not originate in the peninsula; the system must be understood as having evolved around prostitution in Japan from the 17th century.

Having said that, I believe what Professor Chin meant above should be interpreted as a future agendum for the Korean Council.  Accordingly, his suggestion should not be identified with the pillar (1).

What about the pillar (2)?  As far as their well-being is concerned, it is not necessarily true that the Korean Council has satisfied those women’s psychological and material needs while they were in the retirement period.  It has controlled their behaviors and decision-making.  It has divided their personality by elevating them to a group icon.  In other words, those women have become a tool of the intellectuals without being provided any opportunity to pride themselves with their own insights into life.

Both a sincere person and an insincere person are remembered in history.  It is the former not the latter the public will appraise.  The Korean Council with a wrong judgement has left a major stain that cannot be wiped off.  It is anyone’s guess how this incident regarding accounting irregularities comes to an end.  The Korean Council must be back to square one and earnestly and seriously review the pillar (2) so that it can kickstart what needs to be done for those women.  Time is running short.

“The whole truth” sounds nice, however, “Covering the truth” is a shameful act.

A last note: Those who committed human rights violations must be held accountable. It is Japan’s expansion of the theater of operations that prompted the Korean women to take on prostitution business in warfront after the introduction of the licensed prostitution system by Japan to the Korean Peninsula in 1916. The system—that imposed a variety of duties upon comfort station managers to protect the comfort women’s right—was, none the less, something that tacitly gave an approval to human trade. It follows that the Japanese government was not faultless at the time. It is not appropriate, nevertheless, to criticize the system from today’s point of view. As for the “subhuman treatments” the self-proclaimed comfort women narrated, it is reasonable to blame greedy comfort station/brothel managers for business malpractices.

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Note 1: “Discourses on Terminologies Related to the Comfort Women (Licensed Prostitutes)” of April 2019, “My Thoughts on Film Shusenjo” of March 2010, “Korean Puzzle” of April 2020, “Development of the Seigiren Clatter” of June 2020, and “Outcry of Lee Yong-soo, the Self-Proclaimed Comfort Woman” of June 2020.

Note 2: Miyamoto, Archie. (2017). Wartime Military Records on Comfort Women. 2d Edition. Amazon Fulfillment, pp. 37-39