Category Archives: JAL123

火炎放射器を使用した自衛隊による証拠隠滅の嘘

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1985年8月12日に起きた日本航空123便墜落事故から今年2025年で40年になります。残念なことに時が経つにつれ益々事実無根、荒唐無稽な馬鹿げた陰謀説が流れているのが現状です。
そこで次の目的のためになでしこアクションのサイトに
JAL123 カテゴリー http://nadesiko-action.org/?cat=38
を作成しました。
・真実の記録と資料を纏める
・拡散されたデマを事実をもって打ち消す
・損なわれた当時の関係者と自衛隊の名誉を回復する
・事故の教訓を後世に正しく伝える
拡散にご協力お願い申し上げます。
また情報提供いただける方はお問い合わせからご連絡ください。

救助が来る前に自衛隊が火炎放射器で現場を焼き尽くしたという嘘の話がありますが、論理的に数字で論破した資料をご紹介します。

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平成7年1月23日

第35代陸上幕僚長、JAL123便事故派遣隊員
岡部 俊哉

火炎放射器を使用した自衛隊による証拠隠滅の嘘

1 ガソリンとタールの臭い【「墜落の新事実(以下「新事実」)」* p153.175その他】
(1)自衛隊の携行放射器(火炎放射器という呼称はしない)の燃料はゲル化油であり、タールは不使用
ア ガソリンにゲル化剤(アルミニウム(金属)石鹸を)混合、臭いはガソリン臭
イ アルミニウム石鹸(白い粉状):硝酸アルミニウム、苛性ソーダ、2-エチルヘキサン酸等
(2)ゲル化油の作成要領
ア ドラム缶等の器に入れたガソリンにゲル化剤を混入し、攪拌棒でかき混ぜ
イ ガソリン1リットルに対してゲル化剤9グラム
ウ 棒状に飛翔させるため、陸自部隊では、一昼夜寝かせて粘性を持たせる
最小限でも5~6時間は必要と認識
※ 粘性が少ないとガソリンを霧吹きで発射する様な状態となり、射手がガソリ
ンを被る恐れがあり大変危険
エ ゲル化剤は部隊では平素は保持していないため、使用の都度事前に業務隊から補給処へ請求して取得

2 携帯放射器について
(1)トーチカや坑道陣地の入り口等に棒状に火炎を放射して、密閉した内部を焼き払う、あるいは瞬間的に酸素を奪うものであり、棒状の幅(点)しか燃焼させないことから、地域を焼き払う(面)運用には不適
※ホースで水を撒くイメージ、よって面に撒く場合は散水機・洗浄機ではノズルを切り替える
(2)携帯放射器の概要
ア 2本の燃料タンク(計14~15リットル)及び圧縮空気ボンベで1セット
燃料満タンで約31kg

イ 圧縮空気ボンベ
ボンベに空気充填機を使用して充填、高圧ガス製造保安責任者の国家資格必要
ウ 噴射:点射3秒3回(最初に銃口にある火種になる化学火工品を点火させ、一回あたり3秒を目標に3回射撃) →  約10秒で撃ち終わり
エ 射程:約20~40メートル程度(ゲル化油の粘性や風向きによる)

3 3.3ヘクタールの燃焼による証拠隠滅【「新事実」p155、「遺物は真相を語る」p94】
3.3ヘクタールの火災を発生させるためのゲル化油の所要量の算定
(1)携帯放射器を3秒噴射させた際の燃焼面積:5m×10m=50㎡:経験値
(2)携帯放射器を3回噴射させた際の燃焼面積:50㎡×3回=150㎡
(3)3.3ヘクタール(33,000㎡)を燃焼するための携帯放射器の所要数
33,000÷150=220セット → ドラム缶(200リットル)16~17本

4 評価:不可能
(1) 10時間程度の時間内では、大量のガソリン・ゲル化剤の入手、大量のゲル化油作成、携帯放射器への充填、現地への燃料・器材等搬入、放射(焼却)、撤収等の実行不可能
(2) 所要の携行放射器は陸自保有の総数に相当
ドラム缶で運び現地で燃料注入するにしても、ドラム缶に加え、コンプレッサー等多くの資器材を要し、それらを現地に搬入するには多数のヘリコプター運用しかないが、仮に集めたとしも、現地に着陸する地籍なし
(3)これらの大掛かりな作業を部外や他部隊等に知られず、隠密に実施することは不可能

以上

*青山透子著「日航123便墜落の新事実 目撃証言から真相に迫る」、「日航123便墜落 遺物は真相を語る」(河出書房新社)

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◆ 岡部氏が火炎放射器について説明する動画
【特番】JAL123便墜落事故の真相に迫る-40年目の現場からの証言[桜R7/1/14]

◆ ディリー新潮 2020年08月12日
岡部俊哉(第35代陸上幕僚長、JAL123便事故派遣隊員)
【特別手記】「御巣鷹山」48時間の地獄絵図
https://www.dailyshincho.jp/article/2020/08120556/?all=1

JAL123 便の御巣鷹山墜落事故を事件という謬論を正す

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1985年8月12日に起きた日本航空123便墜落事故から今年2025年で40年になります。残念なことに時が経つにつれ益々事実無根、荒唐無稽な馬鹿げた陰謀説が流れているのが現状です。
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JAL123 便の御巣鷹山墜落事故を事件という謬論を正す

元日本航空運航本部 空花正人

令和7年1月23日

昭和60年8月12日に発生したJAL123 便の御巣鷹山墜落事故から40年の時が流れた。

これは1機当たり死者数520人という史上希に見る重大な航空機事故である。

風化させまいとする慰霊行事は毎年行われているが、その事故原因などの事実関係の記憶が薄れていく中、この事故を自衛隊機による撃墜事件であったなどと根拠もない妄想、空論で煽り立てるインターネット動画があふれている。経済評論家などが極端な結論付けで政府批判を謳っているのを見れば誠に憂慮にたえない。「一犬虚に吠ゆれば 万犬実を伝う」状態である。

嘘も百回つけば本当になるというが、事実にもとづかぬ捏造情報で世の中を撹乱するような行動によって、心穏やかでなくなる大方の遺族の人達、そして当時も今も、日夜弛まぬ奮励努力している自衛隊員に対して申し訳ないとは思わないか。

その偽りのシナリオは、こうだ。

「事の発端は、当時自衛隊が無人飛行標的を狙ってミサイル発射実験を行っており、このミサイルが付近を航行中のJAL機に命中して機体を損傷させ、遂に墜落させてしまった。あってはならぬ驚天動地のことである。自衛隊と政府はその事実の発覚を恐れ、証拠を一切隠そうとあらゆる手を打った。ひとつは捜索救難を意図的に遅延させ、米軍の支援を故意に拒否した。その間に先回りした特殊部隊によって機体の残骸や亡くなった乗客をさらに焼き払った。相模湾に没した機体の一部の捜索を打ち切った。当該機にかかわる音声データを改竄した。ボーイング社に機体修理ミスの責任を負わせる見返りに政府は大型機を大量に発注した。以後プラザ合意やらアメリカに首根っこを押さえられ、いいなりになった、等々である。」

筆者は元日本航空社員であり、航空機運航にかかわる専門知識・経験は一通りあると自負している。事故当時大阪の伊丹空港に勤務しており、亡くなった乗客の葬儀に立ち会ってもいた。 機体の残骸も見ている。 後の事故調査報告書も熟読した。

ネットや書籍でどのような主張をしても構わないが、それらが事実だという客観的科学的な証拠を挙げる責任は果たしていただきたい。さもないとそれは世を惑わす妄想でしかない。この論考において、事故を事件と言い立てる謬論に批判を加えようと思う。

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http://nadesiko-action.org/wp-content/uploads/2025/01/jal123_kuuge.pdf

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【 参考資料 】

国土交通省 運輸安全委員会
日本航空 123 便の御巣鷹山墜落事故に係る航空事故調査報告書についての
解説
https://jtsb.mlit.go.jp/kaisetsu/nikkou123.html

群馬県
日航123便墜落事故対策の記録 昭和61年3月
https://www.bousaihaku.com/wp/wp-content/uploads/library/2c577319dfeee4c61e8caf3d287cbc29.pdf

JAL123便墜落事故の真相に迫る-40年目の現場からの証言

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1985年8月12日に起きた日本航空123便墜落事故から今年2025年で40年になります。残念なことに時が経つにつれ益々事実無根、荒唐無稽な馬鹿げた陰謀説が流れているのが現状です。
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【特番】JAL123便墜落事故の真相に迫る-40年目の現場からの証言[桜R7/1/14]
史上最悪の航空機事故として記憶される、1985年の日航機123便墜落事故から40年。その間、事故を振り返る数多くの書籍や言説が発表されてきたが、その中には政治宣伝を目的としたものや、単なる商業主義に過ぎないものなど、却って真相を覆い隠してしまうものも少なくない。今回はこの節目の年に、事故に直接・間接的に関わった識者の方々をお招きし、当時の記憶や専門知識から自衛隊への謂れなき非難を晴らし、事故の真相に迫る特別番組をお送りします。

パネリスト:
岡部俊哉( 元陸上幕僚長・習志野空挺で御巣鷹山初降下)
鍛冶俊樹 (元航空自衛隊・軍事ジャーナリスト)
空花正人 (元日本航空社員)
福田正紀 (カメラマン・事故現場撮影)
山本優美子 (「なでしこアクション」代表・父親が元航空自衛隊で事故現場指揮)
司会:水島総

◆ 岡部俊哉 氏(第35代陸上幕僚長、JAL123便事故派遣隊員)
ディリー新潮 2020年08月12日 【特別手記】「御巣鷹山」48時間の地獄絵図
https://www.dailyshincho.jp/article/2020/08120556/?all=1

◆ 番組で紹介したフリップ
福田正紀(報道カメラマン)2024年8月14日 撮影

※画像をクリックすると別ウィンドウで拡大表示されます

1985年8月12日 日航機墜落事故「勝利なき戦い」に挑んだ自衛隊員たち

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なでしこアクション代表山本優美子が、日本航空123便墜落事故について以前産経ウェブに書かせていただいた記事(2016.8.11付)をご紹介します。
産経ウェブ版: https://www.sankei.com/premium/news/160807/prm1608070004-n1.html
この事故については、今なお全く事実無根の馬鹿げた陰謀説が流れているのは大変残念なことです。
私の書いたこの記事は、航空自衛隊の現地指揮官だった父が保管していた資料を基に書きました。もちろん父にも内容を確認してもらった上で発表したものです。ここに書いてあることが真実です。
事故の起こった8月に多くの方に読んでいただきたくここに再掲します。

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日航機墜落事故「勝利なき戦い」に挑んだ自衛隊員たちの苦悩を忘れてはなりません

8月になると、8月15日の終戦の日や靖国神社参拝が毎年話題になりますが、私が思い出すのは昭和60年(1985年)8月12日に起きた日本航空123便墜落事故です。ヘリコプターから吊るされた自衛隊員が通称・御巣鷹の尾根(群馬県上野村の高天原山)で生存者を引き揚げて救出している映像が印象に残っている方も多いでしょう。あれは陸上自衛隊の写真ですが、航空自衛隊もまた長野県川上村に救難指揮所を設置して活動をしていました。

犠牲者520名、生存者4名。史上最悪の航空機事故に、航空自衛隊は創設以来最大規模の災害派遣出動に踏み切りました。8月12日の事故発生から8月30日の撤収までの18日間は「勝利なき戦い」と呼ばれていました。私の父は当時、入間基地の副司令であり、現地指揮官を務めました。父の保管している当時の資料を見ると、空の守りから陸に降りた航空自衛官の「勝利なき戦い」の様子がよく分かります。

自衛隊のPKO派遣や阪神大震災、東日本大震災での活躍もあり、今では国民の間で自衛隊に対する理解がずいぶん広まりました。共産党幹部が「防衛費は人を殺すための予算」と発言すると非難されるまでになりました。

しかし、昭和60年当時は今のようなインターネットやSNSによる情報はなく、新聞・テレビなどの大手メディアによる情報がすべてでした。その大半は自衛隊バッシングがメディアの正義だと言わんばかりに、まともな防衛知識もないままに自衛隊批判が繰り広げられていました。

事件発生2日後には、ある大手新聞社が「自衛隊に抗議・疑問続々」という見出しで自衛隊の現地到着が遅かったと批判し、それに続いてデマ・放言のようなバッシングが始まったのです。

自衛隊バッシングに熱心な一部メディアは、救難活動の妨げにもなりました。特ダネを求めて軽装で山中に入った記者やカメラマンが脱水症状を起こして陸自のヘリに救助されたこともありました。着陸許可がないのに新聞社やテレビ局のヘリが、救出活動中の現場空域に進入し、2次災害が起きかねない事態も招きました。現場の記者が正確な記事を書いても、冷房の効いた本社にいるデスクに没にされたり、歪められたりして、現場の記者はその都度に自衛隊に弁解したという話も残っています。

では、メディアが批判したように、本当に自衛隊は現場到着が遅かったのでしょうか?

8月12日18時57分、JAL123便がレーダーから消えた4分後の19時01分に百里基地から戦闘機2機が緊急発進し、19時21分には上空から炎を確認しています。

20時33分に羽田空港から災害派遣要請があると、7分後の20時40分には航空自衛隊入間基地から先遣隊30名が出発しました。日付が変わった13日01時10分には同じ入間基地から548名の派遣隊が出発しています。

現地へ急ぐ派遣隊にとって、最初のハプニングは高速道路料金所で起きました。災害派遣で緊急な出動なのだと説明しても料金所の担当者は「料金を払わねば通せない」の一点張り。結局、自衛隊員が立て替え払いしました。急な出動だったので財布を携帯していない隊員も多く、大型車の通行料3200円の支払いに苦労したそうです。

御巣鷹山の事故現場までは40度近い急斜面を歩かねばなりません。背丈以上ある熊笹の藪を切り開き、ロープを伝いながらの移動で3時間以上かかりました。

現場のあまりに無残な様子におう吐する隊員もいましたが、隊員達はみな懸命に働き、「一刻も早く遺族のもとへ」と肉片となった遺体を丁寧に毛布にくるみました。

「遺品はそのままにしておくようにという指示が出されていましたが、熊笹の中に時計などが落ちてると、このまま永久に見つからなかったら遺族は悲しむと思い、目立つ場所まで動かしました」

「悲惨な現場でも尻込みする者はいなかった。作業終了、下山といっても『もっと残ってやりましょう』、『休憩だ』といっても『いや続けましょう』という」

「夜、宿営地に帰った時には、みな作業服が汗でズブ濡れで疲労でおし黙っている。それでも足を怪我した隊員に翌日は『休め』というと『どうしても行かせてください』と必死でいう」

このような現場報告が残っています。18日間の救難活動に派遣された航空自衛隊の隊員は入間・浜松・百里などの各基地から延べ約1万人。怪我で手当てを受けた隊員はいましたが、脱落者はゼロでした。

こうして厳しい任務を終えて戻ってきた隊員を待っていたのは、メディアによる一方的な自衛隊批判でした。隊員はさぞ驚き、落胆したことでしょう。

そんな中、隊員の励みになったのは派遣部隊の前線基地となった長野県南佐久郡川上村のみなさんの協力でした。到着早々、地元の農家の方々が「隊員のみなさんにビタミンを」と大量の高原野菜を差し入れてくれました。汗まみれで帰ってくる隊員に、村の健康センターのお風呂を提供してくれました。体育館を宿舎として提供した川上第二小学校は始業式を2日遅らせてくれ、児童たちは励ましのお手紙を送ってくれました。

「じえいたいのみなさん、とてもつかれたでしょう。じこげんばにいって、ぼろぼろのいたいをみつけて、たいへんでしたね。学校にとまって、毎朝そうじをしてくれてどうもありがとうございます」

「8月22日の昼食をじえいたいのみなさんといっしょにたべさせていただいて、どうもありがとうございます。カレーやサラダとてもおいしかったです。げんばなどにいっていたいをはこんだりしますか。ああいうところでは、しごともきつくてたいへんだと思います。まいにちあついなかごくろうさまです」

川上第二小学校の中澤弘之校長先生(当時)は学校の記録書にこう残しています。

「隊員と児童のふれあい、この大惨事の中で昼食会や激励会がごく自然の形でなされた。隊の救援活動や児童の学校生活に効果的であった。組織体としての自衛隊の規律ある行動、礼節をわきまえた奉仕の精神、子供たちへの思いやり等、児童に多くの教訓を与えた」

あれから31年。自衛隊創設以来の大規模な災害派遣となった日航機墜落事故が残した教訓は果たして生かされているのでしょうか。

救難活動を安全・円滑に実施するために不可欠となる救援機や取材ヘリなどの空中統制は、航空法で十分に規定されているでしょうか。災害派遣車両を料金所で止めるようなことはさすがになくなりましたが、大規模な災害など緊急事態に対応するための法律は、その後の2つの大震災を経て整備されたでしょうか。自治体と防衛省の役割分担・協力体制は充分構築されているのでしょうか。災害派遣された自衛隊員への手当ては充分でしょうか。不幸にも殉職した場合、残された家族に充分な賞じゅつ金は用意されているのでしょうか。

自衛隊の任務は、自衛隊法第3条にあるように「我が国の平和と独立を守り、国の安全を保つため、我が国を防衛することを主たる任務とし、必要に応じ、公共の秩序の維持に当たるものとする」であり、災害派遣は主任務ではありません。災害時の自衛隊派遣は当たり前だと思われていますが、派遣中も限られた人員で通常の防衛業務も遂行しているのです。

政府は、もの言わぬ自衛官に「勝利なき戦い」を強いてはいませんか。自衛隊がその能力を充分に発揮できるよう、憲法改正とともに法整備を進め、装備や予算も充実させるべきです。それが、日航機事故で亡くなった520名の犠牲者の霊に報いることにもなると私は信じます。

※写真 「中警団新聞 昭和60年(1985年)9月15日」より

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