Daily Archives: June 16, 2013

第二話「日本人の娼婦は?」

朝鮮ピー と ピー屋 のお話 を書いてくださった”12歳1945年まで朝鮮の首都京城府にお住まいだった女性”から第二話「日本人の娼婦は?」をいただきました。是非ご一読ください。

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拳を突き上げ「日本人がワリイー」と叫ぶ「旧日本軍の従軍慰安婦」だったという韓国人女性の抗議団。若い女性達や宗教関係者に守られて居るとはいえ、高齢の身に同情は沸くにしても、何か寒々と言いようのない哀れを誘うのは何故なのかーーーー。戦後70年も過ぎて韓国人老女の、この慰安婦騒動は、吉田清治の売らんが為の偽作発表以後、何度、反日騒動を繰り返した事か。今回ご登場の「旧日本軍慰安婦」はーー

金福童(キンボットン)さん87歳。吉元玉(キルウオノク)さんは84歳。二人は沖縄、広島、岡山、大阪で街宣をやり、東京で橋下大阪市長と会見の予定だった、が、「橋下発言」で会見はキャンセル。その事が外国人記者団の発信で世界中に広がった。韓国政府のユン・ビヨンセ外相は、国際裁判所に提訴する、と口走る騒ぎでした。私個人としては、竹島問題もあり、OK待ってましたーーやって下さいよと言いたいところでしたーーー。しかし、提訴発言は即刻立ち消えに。一方、韓国の捏造で有名な「戦争記念館」は、あらたな観光客で質問が飛びかい活況だという。一時的にせよ、好奇の視線が注がれるのでしよう。

一方、在米コリアンの反日活動は更に活気づいて、旧日本軍は20万の慰安婦を強制連行し性奴隷にしたと、今度は英語版のパンフ10万部を空から撒くということです。なぜ「旧日本軍慰安婦」なのか?不思議に思う人は居ないのでしょうか。「従軍」というからには「従軍記者」「従軍看護婦」つまり軍属であるはず。朝鮮人慰安婦は朝鮮ピーさんです。旧日本軍の軍属慰安婦である筈はないのです。嘘を見破るのが先決ではないでしょうか。

70年前の戦時、朝鮮人娼婦より遥かに多かったという日本人娼婦です。それだのに、戦時、従軍慰安婦だったという日本人女性は一人も現れた形跡はありません。私達同窓生が調べた限り、娼婦たちの多くはそっと消え去っています。(例外を後記します)親しかった常連さんに電話で別れの挨拶をして、そっと消えて行ったという話が大半です。

1945年8月の朝鮮半島の南北は、米ソの進駐に時間差が生じ、半島内に居た70万人の日本人の引揚げ世話人会を組織するための初会合は8月16日、つまり「玉音放送」のあった翌日でした。以後、米軍の進駐で朝鮮総督から占領軍へ正式調印が行われ、統治は日本人から進駐軍へ引き継がれます。アーノルド長官との調印が完了するまでの間、日本人世話会の組織化は雑多大混乱で四方八方壁だらけ。事態を素早く察知して闇舟で家財や荷物を積んで日本本土に帰国した人、逆に日本本土から朝鮮に帰還した人も。その混乱の上に日ソ不可侵条約を破って、8月7日には満州から北朝鮮へ南進してきたソ連軍、それに追随して乱暴を働く朝鮮人軍。彼らの略奪、強姦、放火。半島全土は無法地帯と化して大混乱。そういうなかで、遊廓に居た娼婦たちはどうしたか。幾つかのエピソードのなかから、混乱の半島情勢と共に、娼婦物語をひとつご紹介します。

「朝鮮終戦の記録 米ソ両軍の進駐と日本人の引揚」(森田芳夫著、巖南堂書店)で分かるのですが、米ソが進駐してくれば直ちに日本軍は武装解除の運命です。だからこそ自衛のための民間組織の編成、業務遂行の手順は急がなければならないわけです。首都京城の民間有力者は、穂積真六郎京城電気社長はじめ朝鮮繊維産業会社長、朝鮮商工会議所会頭、朝鮮農地開発営団理事長ら。阿部信行総督と遠藤柳作政務総監に向かって穂積氏がこう訴える場面がある。「われわれは小さい時から義士銘々伝や、忠臣蔵を何のために読んだり見たりしてきたのであろう。為政者に、大石の城明け渡しぐらいの決心がないとしたならば、なんのかんばせあって、朝鮮の終末を祖国に報じうるであろう。しっかりして欲しい」と。阿部、遠藤両氏とも、それぞれ身動きとれない事情はあったのですが、それはさて置き。

「忠臣蔵」は当時の日本人には不可欠の娯楽の王者。明治末期から昭和30年代まで映画制作は絶えた事がなく年末のなくてはならない日本人の風物詩だった。激戦時の2年間は映画は激減ですが、それでも絶えたわけではなく、GHQに時代劇映画の制作が禁じられても、サンフランシスコ講和条約締結直後には復活し、昭和27年(1952年)「赤穂城」を製作。1950年代は9本も忠臣蔵の映画が作られています。昭和33年、爆発的に普及するテレビに押しまくられて、この映画も衰退へ。

穂積氏の引揚げ業務についてのこの発意は、迅速に黙々と進める組織力、一糸乱れぬ無血開城の、それこそが、この乱世の日本人の心髄だったと言えそうです。この世話人会で拾った日本人娼婦の姿が、日本人ならでは、いいえ日本人なればこその話なのでご紹介したいと思います。

38度線南部に伝わってくる北部のソ連兵の婦女子への暴行の情報はひどいものでした。朝鮮人、日本人に限らず女と見れば、夜な夜な襲いくる粗暴なソ連兵。ニッポン男子たちが団結して防戦するも相手は銃剣もちで叶わない。女は頭を丸坊主に刈りあげ男に変装。神社に逃げ込んだ二人の姉妹が拒んだために命中弾を浴びて殺されたり。

略奪に対して歯向かった男性は殺されて看護婦が暴行され。マダム、ダワイ(マダム来い)は忽ち有名になります。終戦の翌年には恐怖感より食料や衣服など生活に窮乏が際立ち、食べ物のために逆にソ連兵を求めるものが現れたり、正式にソ連軍中尉と結婚した日本女性も居た程、混乱と変化が相次ぎます。そこへ置き去りにされた子どもや老人たちの話も伝わってきます。

38度線の南への避難民は日を追って増え、京城府内の学校や寺など引揚げ列車に乗り込むまで待機避難所になりますが、忽ちどこもここも避難民で一杯になるのです。彼らの惨状を知って元遊廓の娼婦たちが動き出します。

「私達の体はもう汚れ切って居る。このまま日本に帰ってもろくな生き方は出来まい。ね、そうでしょ。そうよ。ね。だから最後に何か世間様の、お役に立つ事をしようじゃないの」と、彼女らは2人連れ、3人連れになって、前記の引揚者世話人会に申し出て、38度線を越え、孤児や老人や病人の救出に北上して行ッたのです。

放置されたままの幼児をおぶったり、ある時は良家の姉妹を救うために、自分が身代
わりになって身を投げだし、姉妹を逃がす。老人を背負い、腕を取って救出して戻ってくると。世話人会からきた軍服を脱いだ元憲兵やシャツ姿のGIに、彼らを引き渡し、いっとき休養を取って少しばかりの食事の宴を張って元気を出し、また2、3人ずつ連れ立って38度線を越えて北上していくという英断を挙行し続けたのです。

「出かけていく時に、形ばかりの宴会をやるのよ。その場面が今も目に浮かびます。もと遊女だから三味線がなくても歌は上手いし。詩吟とか股旅物をよくやってました。身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ、と。欲を捨てて身を投げだしてしまえば、生きる道は開けるものよ。捨て身の戦法でさあ、出発。行きましょう、とね。月形半平太なんかよく歌ったり踊ったりして気合を入れてました。月様、雨が、春雨じゃあ濡れていこう、みんなあの名場面がお得意でした。踊りも巧くてね、今も目に浮かびます」

京城府立第一高女の1年生だった小村恵美子の目撃談です。もともと両親は満州ハルピンでカフェの経営者。父親が失踪、のち母ひとり子ひとり。母親はサングラスをかけた超美人で有名で京城本町で食堂を経営。ところが引揚げが始まった段階で寝ついてとうとう帰らぬ人に。一人っ子になった小村さんは引揚げ世話人会のお世話で、この旭町遊廓の空き家に寝泊まりすることになり、保護者として九州の同郷者が現れるまで半年間、彼女らと同居した結果、元娼婦たちの、この捨て身の戦法を目撃する事になったというわけです。娼婦たちは、入れ代わり立ち代わりで、ばらばらですが、全部で10人くらい居たでしょうか。「人間欲を捨てたら道は開ける、今も通じる教訓だと思います」と小村さん。この方の引揚げは翌21年3月、仁川港から博多港へ。今81歳。福岡に居られます。

                                2013年6月16日記
                                         以上