戦時中、日本軍の慰安婦数は20万~数十万人だったとして海外で広まっていますが、記録が精査されていないので正確な数字は分かりません。
今年(H30)4月、長尾秀美(元在日米海軍司令部渉外報道専門官・小説家)氏から論考「慰安所数と慰安婦数に関する事実の提示」をいただきました。この中で長尾氏は、資料を基に慰安所は 491 軒、慰安婦は 5,345 人だったと推定しています。
この8月30日、国連人種差別撤廃委員会が最終見解書(CERD/C/JPN/CO/10-11)を発表したことを受け、長尾氏は国連の公用語となっている英語と中国語で下記要請文を国連人権理事会へ送付されましたのでここにご紹介します。
※ PDF版 (2018.9.20改訂)
[日本語版]
「慰安所数と慰安婦数に関する事実に対し、国連人権理事会による公正な判断を求める要請 」 長尾秀美
https://bit.ly/2MNAg6c
[英語版]
“REQUEST FOR SOUND JUDGEMENT OF THE UNITED NATIONS HUMAN RIGHTS COUNCIL, WITH REGARD TO THE FACTS PERTAINING TO THE COMFORT STATIONS AND COMFORT WOMEN” Hidemi Nagao
https://bit.ly/2NUzs4o
[韓国語版]
“위안소 수와 위안부 수에 관한 사실에 대해, 유엔 인권이사회에 공정한 판단을 요청” 나가오 히데미
https://bit.ly/2xCDEvc
[中国語版]
“要求联合国人权理事会针对有关慰安所数和慰安妇数的事实做出公正的判断” 长尾秀美
https://bit.ly/2xy2yvZ
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(初版:平成30年4月20日)
改訂版:平成30年9月20日
慰安所数と慰安婦数に関する事実の提示(改訂)
発: 長尾秀美 年金生活者、小説家、ノンフィクション作家
宛: 国連人権理事会
主題: 慰安所数と慰安婦数に関する事実に対し、国連人権理事会による公正な判断を求める要請
添付: 慰安所数と慰安婦数に関する事実の提示
1.旧日本帝国陸軍及び海軍は、太平洋戦争が終わるまで、戦地に設置された慰安所を利用していました。これは明白な事実です。その慰安所で働いていた女性は慰安婦と呼ばれていました。これらの女性たちの人権侵害に対しては、1990年代初頭より、慰安婦問題として日本、韓国、中国などで議論されています。この問題は既に何度か国連でも取り上げられ、申し立てられているいくつかの人権侵害分析報告書に基づき、日本政府に対し勧告がなされています。
2.この依頼は日本が犯した過ちを糊塗するために提出されたものではなく、日本が以前制定していた公娼制度の正当性を主張するものでもありません。下記添付文書の事実及び推定される事実に基づき、貴理事会が慰安婦問題について公平な判断を下され、且つ、これまで出された日本政府に対する勧告の再考を要請するものです。
3.2018年8月30日、国連の人種差別撤廃委員会は、報告書(CERD/C/JPN/CO/10-11)を発表しました。同委員会は、慰安婦問題に関する第27段落及び28段落において、日本政府に「被害者中心のアプローチによる恒久的な解決」を勧告しています。過去にも慰安婦問題に関連し、同主旨の懸念や勧告が表明されています。例えば、2014年8月29日の同委員会報告書(CERD/C/JPN/CO/7-9)の第18段落、2008年12月18日の市民的及び政治的権利に関する国際規約委員会報告書(CCPR) 2008 (CCPR/C/JPN/CO/5)の第22段落、女性差別撤廃委員会報告書(CEDAW 2003 362)の第361段落及び362段落などです。
4.勧告の前提となっているとされる下記2つの分析報告書は、一見、歴史上の日本の行為や行動を法的解釈の観点から非の打ち所がないように詳述しています。然しながら、その本文にはいくつかの基本的な事実が不充分な形で提示されているので、同報告書には欠陥があると判断せざるを得ません。又、下記に引用した慰安婦証言録は、当時の日本が制定していた公娼制度の実態に全く触れていません。この制度を把握しないまま出版された同証言録は、慰安婦の実態を明らかにしていません。
4.1:国連人権委員会(現理事会)に提出されたクマラスワミ報告書「E/CN.4/1996/53(女性への暴力に関する特別報告書)」は、日本によって制定され、朝鮮にも導入された公娼制度の実態について触れていません。クマラスワミ女史が、同報告書中、殊に第11から14段落及び19から20段落でこの制度へ言及しなかったことにより、貴人権委員会(現理事会)構成員の判断を誤らせた恐れが多分にあります。同制度は朝鮮でも1908年から少なくとも1945年まで施行されていました。しかも同制度は名目上公布されていただけでなく、実質的に定着していたことが明らかになっています。この公娼制度の実態を把握しない同報告書は、下記添付文書で明らかなように、重大な事実誤認を招いています。
4.2:国連人権委員会(現理事会)に提出されたマクドゥーガル報告書 の付属文書「E/CN.4/Sub.2/1998/13」の第1段落は、アジア各地の強姦施設には推定で20万人を超える女性が奴隷化され性的サービスを強制されたと記述しています。マクドゥーガル女史は、同報告書で91の文献を引用しているにも拘らず、この推定された数字については、記録として残されている書籍、文書、声明などを全く引用していません。20万人以上という一般人にとって衝撃的な数字は、推定だとしても、事実に即したものでなければなりません。彼女の記述に合理性がないことは、下記添付文書を精読していただければ明らかになります。
4.3:20人余りの朝鮮人元慰安婦と面談した人たちは、彼女たちの証言録を書籍として出版しています。その過程で彼女たちの体験に焦点を当て過ぎた結果、面談者は当時朝鮮で施行されていた公娼制度の内容に触れていません。添付文書は、慰安婦を取り巻いていた環境を明らかにしています。
5.以上の理由により、貴理事会がこれまでの勧告を一括して再考されることを要請します。
長尾秀美
住所:日本国、神奈川県横浜市西区久保町45-21
電話:81-90-6305-0449
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添付文書
慰安所数と慰安婦数に関する事実の提示
目次
I 関連用語
II 朝鮮半島の公娼制度
III 慰安所数と慰安婦数
IV 慰安婦に関する事実
V 結語
参考文献
慰安所数と慰安婦数の推定に関しては、以下の資料を主として参照した。
資料A:『日本軍「慰安婦」関係資料集成〈上〉〈下〉(鈴木裕子、山下英愛、外村大《編》)』(2006年、東京、明石書店)(注:この資料は資料Bに含まれる手書き文書を印字し直し、関連資料と考察を加えたもの)
資料B:『政府調査「従軍慰安婦」関係資料集成①~⑤』(1998年、東京、龍渓書舎)(注:この資料は政府などが保存している慰安婦関連の文書を復刻させたもので手書き文書を含むもの)
資料C:佐久間哲 南海の慰安所(ラバウル、パラオ、トラック、マリアナ諸島)、ニッポンリポート 従軍慰安婦を調べる編 従軍慰安婦の体験談等メモ・1-7及び9-12 (出典:ウエブサイト、南海の慰安所(ラバウル、パラオ、トラック、マリアナ諸島)(satophone.wpblog.jp/?p=2886)、2018年3月8日より閲覧)(注:この資料は主として内南洋関係の追憶・自伝・評論などを読み、その著者名と慰安所・慰安婦の引用箇所を抜き出し、原本のページ番号を記載したもの)
資料D〈上〉〈下〉:『証言 未来への記憶 アジア「慰安婦」証言集 I、II-南・北・在日コリア編』アクティブ・ミュージアム「女たちの戦争と平和資料館」編 西野留美子・金富子 責任編集 (2010年、東京、明石書店)(注:この資料は元慰安婦25人の証言を聞き取ったもの)
資料E:『証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち』(1993年、東京、明石書店)(注:この資料は当初名乗り出た110人の慰安婦の中から、正式に面談することができた19人の証言を聞き取ったもの)
その他の参考文献については個々に引用した。資料中の文書を引用する際、古い書き言葉は必要に応じ、筆者の責任で文章を現代語に直し、又、必要に応じ、(*)内に補足説明を加えた。下線部は注意を促すために筆者が引いた。
I 関連用語
本論に入る前、上記資料などから抜き出した慰安婦関連用語を列挙し、買売春の歴史の一端を振り返る。
慰安所:戦地に設置された買売春施設
営業者:公娼(稼業婦)の抱主、雇用主
稼業:公娼として売春すること
稼業婦:妓女、特殊婦人、醜業婦、娼妓、娼婦、乙種芸妓、第2種芸妓、酌婦、乙種酌婦、妓生(一牌、二牌、三牌)、蝎甫(*カルボー)、隠君子など稼業を営む女性
貸座敷:特殊料理屋、特殊料理店、乙種料理店、第2種料理店、中国漢口では楽戸、陸軍ではピー屋、海軍ではレスなど、稼業婦が営業していた建物、但し朝鮮では客主、酒幕、賞花室など私娼が営業していた建物を含む
芸妓:歌舞や音曲などで酒宴の座に興を添えることを業とする女性。芸者、芸子。但し、境界線が曖昧になることもあった(出典:コトババンク、2018年3月8日閲覧https://kotobank.jp/word/芸妓-488297)
公娼:警察当局で登録した稼業婦
私娼:警察当局で登録していない売春婦
指定区域・地域、制限区域・地域:貸座敷での営業が認可された場所
II 朝鮮半島での公娼制度
1、売春取り締まり
資料A編者の1人、山下英愛氏は、日本が朝鮮において公娼制度を導入した過程を3つに分けている(資料A〈上〉、p675)。
第1期:1876年の朝日修好条規締結後
第2期:1905年の統監府設置後
第3期:1916年の貸座敷娼妓取締規則を発布後
朝日修好条規締結後、釜山、元山、仁川が開港され、ソウルや龍山にも出入りが認められると、日本人の本格的移住が始まった。両国の貿易が発展するに連れ、日本人居留地では日本人芸娼妓が商売を始め、彼らに対し鑑札制を実施するようになった(資料A〈下〉、p675)。
日本は何故この鑑札制度を朝鮮に持ち込んだのか。それは江戸時代より遊郭が栄え、同時に私娼がいて、幕府がこれに対する取り締まりをしていたからだ。更に、第1期直前、日本が以下のような政策を打ち出していたからだ。
【近代公娼制度は1872(明治5)年太政官達295号(所謂「娼妓解放令」)を画期として前近代のそれとは隔絶する形で再構成された売春統制政策であり、娼妓が届出を行う事によって稼業許可を与え、一定の制限区域(貸座敷指定地) でのみ営業を認めるものであった】(出典:「人身売買排除」方針に見る近代公娼制度の様相「立命館大学人文科学研究所紀要No. 93」(2009年3月)特別研究員 眞杉侑里、p237)
一方、朝鮮社会にも性売買慣習があり、朝鮮王朝時代末には様々な等級の売淫婦がいた(資料A〈下〉、p677)が、日本当局は朝鮮人売春婦に対しての取り締まりができなかった。
日本が実質的に朝鮮を統治し始めた第2期になると、朝鮮統監府(後の朝鮮総督府)は必要に迫られ、1908年、警視庁令で「妓生団束令」と「娼妓団束令」を発布し、朝鮮人売春婦の営業を警察当局の認可制として管理し始めた(資料A〈下〉、p677)。
日韓併合後の第3期となる1916年3月31日、警務総監部は朝鮮全体で売春の取り締まりを統一するため、宿屋営業、料理店飲食店、芸妓などや芸妓置屋、貸座敷を取り締まる4つの法令を発布し、5月1日よりこれらを施行した(資料A〈下〉、p680)。各行政区は各規則に基づいて地域を指定し、営業を認可した。その数は以下の通りだった(資料A〈上〉p583-641)。
威鏡北道(2)、咸鏡南道(5)、平安北道(*同道文書に地域の指定はないが、貸座敷、芸妓娼妓酌婦の記載がある(資料A〈上〉、p696、697))、平安南道(10)、黄海道(1)、京畿道(3)、江原道(同上)、忠清北道:(同上)、忠清南道(1)、全羅北道(3)、全羅南道(13)、慶尚北道(2)、慶尚南道(19)
尚、警察当局に登録された日本人公娼と朝鮮人公娼の人数は1910年から1942年までの記録が残されていて、最後の3年間については以下の通りだった(抄)(資料A〈上〉「接客業界の統計」、p779、p783-786)。
芸妓 娼妓 酌婦 カフェー・バー女給 合計
1940(昭和15) 内地人 2,280 1,777 216 2,226 6,499
朝鮮人 6,023 2,157 1,400 2,145 11,725
1941(昭和16) 内地人 1,895 1,803 292 1,893 5,883
朝鮮人 4,828 2,010 1,310 1,998 10,146
1942(昭和17) 内地人 1,797 1,774 240 1,644 5,455
朝鮮人 4,490 2,076 1,376 2,227 10,169
2.芸妓、娼妓、酌婦の状況
上記法令は性病防止や関係者の納税義務を定めるだけではなく、芸妓などの身分や権利を明らかにもしていた。その内容を読むと、当局の意図が女性を性奴隷にするためではなかったことが明白になる。下記では筆者がその中の2つの要点のみを書き出し、号・項番号を加えた。
(1)朝鮮総督府警務総監部令第3号 芸妓酌婦芸妓置屋営業取締規則 1916年3月31日、朝鮮総督府官報1916.3.31(抄)(資料A〈上〉、p615-616)
芸妓(妓生を含む)又は酌婦営業をしようとする者は、本籍や氏名や営業地などを記載した願書に以下の書面を添付し、警察署長の許可を受けること。1、夫を持つ女性は夫の承諾書、その他の場合は父や扶養義務者などの承諾書 2、承諾者の印鑑証明書 3、戸籍謄本又は民籍謄本 4、経歴及び芸妓又は酌婦をする理由を記載した書面 5、健康診断書
(2)朝鮮総督府警務総監部令第4号 貸座敷娼妓取締規則 1916年3月31日、朝鮮総督府官報1916.3.31(抄)(資料A〈上〉、p619-622)
貸座敷営業者は警察署長の許可を受け、以下の項目を遵守する。1、娼妓の意思に反して契約の変更をしない。2、娼妓に余計な失費をさせない。
貸座敷営業者は各娼妓のために貸借計算簿2冊を整え、その1冊を娼妓に交付し、毎月3日迄に前月分の貸借に関する計算を詳しく書き込み、娼妓と共に捺印する。
17歳未満の者や娼妓稼ぎ又は前借金に関する契約が不当だと認められる時は許可しない。
上記公娼制度が定着し、日本軍が外地の駐屯地近くに慰安所の設置を求め始めた時、下記通牒案が起草された。この通牒案は庁府県長官宛てとなっているが、その理由は、出征する陸軍部隊が日本国内の地域ごとに編成されたからだ。例えば中国の漢口へ派遣された天谷部隊は香川県からだった。従って同県内の業者は、公娼を募集し、支那への引率許可を県知事に願い出ていた(資料A〈上〉、p187、188)。
1938年2月18日 支那渡航婦女の取扱に関する件、内務省警保局長「庁府県長官宛通牒案」(抄)(資料A〈上〉、p124―130)
1、醜業を目的とする婦女の渡航については、現在内地で事実上同様な醜業を営み、満21歳以上且つ花柳病その他伝染病疾患のない者で、北支、中支方面に向う者に限り当分の間これを黙認し、昭和12年8月米3機密合第3376号外務次官通牒による身分証明書を発給する。2、稼業の仮契約の期間が満了した際は帰国するように前もって言い含める。3、上記目的で渡航する者は必ず本人自ら警察署に出頭し、身分証明書の発給を申請する。4、その際は、同一戸籍内の親などの承認を得る。5、更に調査して、婦女売買又は略取誘拐等の事実がないことに留意する。6、募集周旋等に従事する者については厳重な調査を行い、正規の許可又は在外公館等の発給する証明書がない者や身元が確実でない者には許可しない。
上記通牒案は、1938年2月23日、内務省発警第5号、支那渡航婦女の取扱に関する件(抄)として内務省警保局長から各庁府県長官宛に正式に通達された(資料A〈上〉、p138-139)。
これに基づき、周旋業者は稼業者となる女性又はその親権者に対し、一般的には下記のような契約証、承諾書、金銭借用証書、契約条件を提示し、公娼を募集した(資料A〈上〉、p128-132)。
契約証:1、稼業年限。2、契約金。3、賞与金は揚げ高の1割(但し半額を貯蓄すること)。4、食費衣装寝具など消耗品や医薬費は抱主の負担とする。5、稼業人・連帯人の署名。(*貯蓄は郵便貯金のこと)。
承諾書:親族の承諾書・稼業をすることへの同意文。
金銭借用証書:金額及びこれを返済することと、借用人・連帯人の署名。
契約条件:1、契約年限。満2ヶ年。2、前借金500円より1,000円まで(但し右前借金の内2割を控除し、身付金及び乗込費に充当する)。3、前借金返済方法は年限完了と同時に消滅する。即ち年期中にたとえ病気休業したとしても、年期満了と同時に前借金は完済する。4、違約金。5、年期満了で帰国の際の帰還旅費は抱主が負担する。6、年期を無事満了した場合は本人稼ぎ高に応じ応分の慰労金を支給する。
上記では周旋業者の契約証が貯金に言及している。悪徳業者が従業員に生命保険を掛け、危険な仕事に従事させ、或いは長時間労働をさせる今風の現実もあるが、この貯金は公娼のためだ。馬来(*現マレーシア)軍政監は、1943年11月11日、慰安施設及旅館営業遵守規定制定の件達(抄)で以下の規定を設けている(資料A〈上〉、p433-438)。
1、稼業婦の稼業からの収益金より強制貯金を控除した後の残高の収得歩合は下記の通りとする。
稼業婦稼高の配当歩合: 債務残高 雇主所得 本人所得
1500円以上 6割以内 4割以上
1500円未満 5割以内 5割以上
無借金 4割以内 6割以上
2、前借金や別借金は総て無利息とする。
3、雇主は稼業婦の毎月稼ぎ高の100分の3を地方長官の指定する郵便局に稼業婦本人の名義で貯金し、稼業婦廃業の時本人に交付するものとする。
上記規定が1943年になり、マレーシアのみで突然しかも初めて発令されたと考えることもできる。しかしそれは合理的な解釈になるだろうか。なぜなら、朝鮮半島だけでも公娼関連規則の施行は1916年以来、27年の歴史があるからだ。
III 慰安所数と慰安婦数
1、推定作業
(1)沿革
公娼を置く慰安所が外地に設置される切っ掛けは1932年初頭に起こった上海事変だと言われている。日本と中華民国による休戦協定調印後も海軍部隊が現地上海に駐屯していたので、年末に掛けて、海軍慰安所が設置された(出典:資料A〈上〉、p28、119、〈下〉p628)。これを受け、陸軍も海軍に追随し、中国駐屯部隊のために慰安所を設置し始めた(出典:資料A〈下〉p628、629)。以後、日本は元より、朝鮮半島からも営業者が公娼を引率して中国へ渡航するようになった。外地の慰安所で働く公娼が特殊婦女、特殊婦人、特殊慰安婦と呼ばれるようになったのはその後のことだ(出典:資料A〈上〉、p42、178、328)。
(2)設置場所
資料A-Cには、慰安所があった場所の都市名を記載している場合と、その場所に駐屯した部隊名だけを記載している場合がある。後者については、部隊の移動などを調べて場所を推定した。
又、慰安所を数えるために2つの仮説を建てた。①慰安所関連の文字を含む文書が起草された場所には、少なくとも慰安所が1軒あったと推測した。②上海事変後の1933年以降に作成された文書が地名又は慰安所に触れている場合、戦況が落ち着いていると見做し、1941年12月8日以降もそこに慰安所があったと推測した。
(3)慰安所1軒当たりの慰安婦数
資料A-Cでは慰安所にいた慰安婦数を明記している文書に比べ、具体的な数字がない文書が多い。従って、1940年の呂集団特務部月報(第7号・通巻第17号)南昌市政府警備処に於ける楽戸(遊郭)公娼の取締及営業税徴収暫行規定、「第5条 各種楽戸の所有公娼は10名未満とする」との記述を参考にした(資料A〈上〉、p243―247)。
2、結果
それぞれの資料から得られた結果は以下の通りだ。言うまでもなく、下記数字には日本人、朝鮮人、台湾人、中国人及び東南アジア人が含まれている。但し、慰安所が設置された場所については、日本(沖縄を含む)、朝鮮半島、満州、台湾を除いている。その理由は当該場所が戦地ではなかったからだ。
資料A〈上〉 : 慰安所377軒、慰安婦4,038人(*中国本土から東南アジア)
資料B⑤ : 慰安所68軒、慰安婦738人(*中国本土から東南アジア)
資料C : 慰安所59軒、慰安婦699人(*特に内南洋関係)
但し、資料A〈上〉とB⑤で重複した記述〔ビルマ(13軒130人)〕を考慮し、総数を次のように修正した。推定数:慰安所491軒、慰安婦5,345人
この総数には、資料A-Cに記述がなく、資料D及びEでのみ触れられた慰安所数や慰安婦数を算入していない。証言自体に曖昧なところが多く、推定総数に大きな影響を与えないと判断したからだ。
3、兵士と慰安婦の比率
慰安婦数を推定する際、有識者は兵士30人~150人に対し慰安婦が1人いたという仮説を基に、総数を41万人~2万人としている(出典:ウエッブサイト、デジタル記念館 慰安婦問題とアジア女性基金 慰安所と慰安婦の数(http:// www.awf.or.jp/)、2018年3月10日閲覧)。一方、1939年4月15日の医務局長課長会報の松村波集団軍医部長報告(資料A〈上〉、p146)は「性病予防のため兵100人につき1名の割合で慰安隊を輸入する」としている。
ここでは1942年2・5・6・7・8・9・10月の陸軍省業務日誌摘録、陸軍省医務局医事課長〔9月3日課長会報〕(資料A〈上〉p308)で、恩賞課長が、「将校以下の慰安施設を次の通り作りたい」と述べ、「北支100ケ、中支140、南支40、南方100、南海10、樺太10計400ケ所」としていることも利用した。同文書を普通に読むと、恩賞課長は1942年9月3日時点で戦地の慰安所数を算定し、その後出征する兵士数の増加を見越し、400ヶ所あれば足りると予想していたと解釈できる。彼は同年6月、海軍がミッドウェー海戦で大敗したことと、海軍の継戦能力低下の意味を知らされなかったようだ。
以上の指標を基に、各比率が実態に即しているかどうかを検討した。慰安所1軒当たりの慰安婦数は以下のように推定された。
① 慰安所数が400だった場合、
20,000人÷400軒=50人
200,000人÷400軒=500人
410,000人÷400軒=1,025人
② 慰安所数が491だった場合、
20,000人÷491軒≒41人
200,000人÷491軒≒407
410,000人÷491軒≒835人
③ 慰安所数が1,000だった場合、
20,000人÷1,000軒=20人
200,000人÷1,000軒=200人
410,000人÷1,000軒=410人
4、上記結果の合理性
1軒当たりの慰安婦数が50人~20人は、一見、膝を打つことができそうだ。しかし資料AーCを読む限り、慰安婦数は、最大でもインドネシア・スマトラ島南部にあるパレンバンで4軒120人(資料A〈上〉、p212)、次に多いのはスマトラ島の現アチェ特別州のバンダ・アチェのクタラジャに1軒28人(資料C、(その536.7))だった。全体から見れば1軒20人でさえ中国の漢口でのみ見られるだけだ。つまり1軒30人前後は例外となる。
確かに、日独戦役憲兵史(抄)1917年9月の文書には、青島に日本人貸席が9軒あり、酌婦348人がいたという記述がある(資料A〈上〉、p10-13)。これだと1軒当たりで39人前後を抱えていたことになるが、同文書の日付が古すぎるので、例外中の例外だと言える。
上記計算では慰安所数1,000軒を意図的に加えた。これは1軒当たり20人という数字を出すためだったが、この1000軒が実態と重なる可能性は1つしかない。公娼を抱えていた491軒の慰安所に対し、日本軍駐屯地近傍に、私娼を抱えていた売春宿が509軒もあった場合だ。
上記2で推定された慰安所491軒と慰安婦5,345人を基にすれば、慰安所1軒当たりの慰安婦数は10.9人となる。この数字は、上記1.(3)で引用した1940年の呂集団特務部月報(第7号・通巻第17号)南昌市政府警備処に於ける楽戸(遊郭)公娼の取締及営業税徴収暫行規定、「第5条 各種楽戸の所有公娼は10名未満とする」との割り合いに近似している。従って慰安所491軒と慰安婦5,345人は合理的な推定値と見做すことができる。
5、慰安婦の交代率
慰安婦数については彼女たちの交代率を考慮する有識者がいる(出典:『「慰安婦」問題とアジア女性基金』2007年3月、財団法人女性のためのアジア平和国民基金、p10)。秦育彦氏や吉見義明氏などは交替率を1.5とか2.0としている。病気で落命したとか、年季明けで帰国した慰安婦の補充を考慮し、例えば1940年6月現在で仮に2万人の慰安婦がいたなら、3年後の1943年6月には、慰安婦総数が3万人~4万人になった筈だと推定するものだ。娼妓契約が3年と定められていれば、これを否定する事由はない。
推定慰安婦数5,345人に交代率1.5を算入すれば、約8,017人となるけれど、①戦火で慰安所が閉鎖されたり、②個人的な理由で慰安婦が慰安所を転々としたり、③慰安婦が収入を得る手段として公娼を続けたりしたことを考慮すると、交代率の妥当性にやや疑義が生じる。
ところで、慰安婦が強制連行された性奴隷だったとの主張は、交代率の導入にも意義があるのだろうか。営業者は病気・栄養不良・虐待などで死亡した性奴隷を当然補充するだろうが、性奴隷には契約もないし年季明けもない。従って、10人の性奴隷を抱える営業者の場合、交代率1.5又は2.0とは病気などで死亡する性奴隷数が、例えば3年後に5人又は10人に達することを意味する。営業成績増加しか眼中にない営業者が、性奴隷の費用対効果を蔑ろにする筈はない。
6、慰安婦数に対する朝鮮人の比率
慰安婦総数に対し、朝鮮人の比率は本当に多かったのだろうか?
①第15師団軍医部が1943年1月に実施した特殊慰安婦検診結果によれば、南京にいた慰安婦の検査延人員数は、内地人1007人、半島人113人及び中国人513人だった(資料A〈上〉、p387)。総数に対する朝鮮人比率は約7%となる。逆に②1941年下半期と1942年上半期に朝鮮から北支、中支、南支方面へ渡航した公娼は日本人53人と朝鮮人667人だった(資料A〈上〉、p395、396)。朝鮮人と日本人との比率は約93%と約7%となる。
①の比率で朝鮮人慰安婦が20万人だったなら、3ヶ国の慰安婦数は2,857,142人となる。②の比率では朝鮮人慰安婦20万人に対し日本人慰安婦6,185人がいたことになる。上記2,857,142人と206,185人に対し慰安所が400ヶ所あったとすると、慰安所1軒当たりの慰安婦数はそれぞれ約7,143人と515人となるが、②の515人には中国人などが含まれていない。①の比率による1軒が抱えていた慰安婦7,143人は実態としてあり得ない数字になる。仮に②の比率による515人が実態に即していたとしても、1日当たり外出許可を受けた兵士が515人で、彼ら全員が1軒の慰安所を利用するなら商売にならない。なぜなら、営業者は日々515人の慰安婦に食事を与えるだけでなく、収益の一部を彼女達の取り分として与えなければならないからだ。
IV 慰安婦に関する事実
資料Dは元慰安婦25人の証言を掲載している。ここでは公娼制度と彼女たちの証言内容を照らし合わせる。
1、身分証明書など
慰安婦募集については、ソウルで新聞広告が利用された事例が残っている(出典:秦郁彦著『慰安婦問題の決算 現代史の深淵』2016年、PHP研究所、p209)。営業者は慰安婦本人又は彼女の親権者と、承諾書や契約書や金銭借用証書を交わし、年期や稼ぎ高に対する女性の取り分などを定める。慰安婦は警察当局から公娼としての身分証明書を発給され、戦地に到着した時には、現地官憲にその証明書を提示することが求められていた。
証言者25人の中で、証言が曖昧ながらも身分証明書を発給されていたのは、5人(資料D〈上〉p46、同〈下〉p24、83、116、288)、承諾書らしいものに言及していたのは1人(同〈下〉p241)だった。自分が売られたと理解していた慰安婦は4名だった(同〈上〉、p83、127、155、同〈下〉、p313)。略取誘拐や拉致に身分証明書や承諾書は必要ない。人身売買なら、金を受け取ったのは慰安婦の親だったのだろうか。
2、慰安婦の収入など
戦地にいた慰安婦は定期的に収入を得て、奨励にしろ、強制にしろ、自分の稼ぎを貯金していただけでなく、家族にも送金していた(出典:水間正憲著『ひと目でわかる「慰安婦問題」の真実』2014年、PHP研究所、p78、79、及び1944年10月1日付け米国戦時情報局心理作戦班『日本人戦争捕虜尋問報告書第49号』)。慰安婦はその稼ぎ高の1割ないし6割を自分たちの収入にし、貯蓄額には利子も付いていた。
一方、証言者25人の中、給料をもらったのは4人(資料D〈下〉p32、115、221、314)、その中で取り分に触れたのは1人(同〈下〉p32)だった。一方、お金を稼ぐために自分から営業者などの誘いに乗ったのは14人になる(同〈上〉、p21、45、104、118、127、167、同〈下〉、p22、81、117、132、178、241、251、283)。性奴隷が時には小遣いをもらっていたとしても、性奴隷が給料を得ていたとしたら驚かざるを得ない。結果的に詐欺に遭ったことが事実だとしても、証言者自身が自ら誘いに乗ったことと自己責任とを切り離すことはできないだろう。
3、名乗り出た慰安婦
(1)公娼なのか私娼なのか
1990年12月末、韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)が設立されると、挺対協は元慰安婦に名乗り出るようにと呼び掛けた。翌年夏から110人が同会に登録されたが、正式に面談調査ができたのは19人だけだった(資料E)。110人全員が規則や通達などの手続きを踏んでいなければ、彼女たちが拉致され、性奴隷にされ、日本の敗戦まで苦汁をなめ続けたという証言は納得できる。その場合、彼女たちは私娼だったことになる。韓国側が元慰安婦の契約書・収入・貯金・家族への送金について何も触れない以上、彼女たちは私娼だったとしか言えなくなる。
(2)証言者の比率
2017年⒓月19日付けソウル連合ニュース(出典:ウエッブサイト(www.chosunonline.com 国際 慰安婦)、2018年3月12日閲覧)によれば、韓国政府に登録された慰安婦数は239人だ。朝鮮人慰安婦が20万人だったとすれば、239人は全体の約0.12%でしかなく、数値が低すぎる。一方、推定慰安婦数5,345人が実態に近く、その中の日本人、中国人、台湾人、東南アジア人などが合計2,955人だった場合、朝鮮人慰安婦数は2,390人となり、10%が名乗り出たことになる。1990年代初め、女性の人権侵害を理由として日本政府を告発できる環境は既に整っていた。彼女たちの過去を隠したい心情や平均余命と日韓関係の捻じれを斟酌しても、10%に対し0.12%は信じがたい。
(3)補足的疑問
①資料D編纂者の面談姿勢には大きな疑問符が付く。なぜなら、彼女たちが戦地へ送られた経緯を明確にすることが重要なのに、一貫性・合理性をもって質問がなされたという痕跡がまったくないからだ。確かに元慰安婦が性奴隷として受けた精神的・肉体的苦汁を克明に記録することは重要だ。しかし編纂者の努力は空回りしている。慰安婦を取り巻いていた全体像が端的に描写されていないからだ。個々人の記憶の曖昧さを補足するためにも、事前に聞き取るべき要点を列挙したチェック・リストを準備していれば、各証言者に共通する事実をもっと明白にできた筈だ。
②資料Dによれば、1人の慰安婦は台湾中西部の彰化の慰安所にいたが(資料D〈上〉、p107)、買売春には軍票ではなく、現金のやり取りがなされ、民間人もその慰安所を利用していた。これらの事実に加え、軍が情報漏洩に留意していたことを考慮すると、彰化にあったのは普通の売春宿のようだ。
③資料Eは慰安婦がいた場所の地図(p19)を掲載し、吉林(p113)、大阪(p245)、富山(p286)、釜山(p301)に加え、新竹、高雄を挙げている。これらの場所はいわゆる戦地ではない。そこにあったのは矢張り市中の売春宿のようだ。
④資料Eの19人の証言は1993年に出版されている。2010年に上梓された資料Dはなぜ資料Eに含まれている6人の証言を敢えて再掲したのだろうか。
4、その後の事実
(1)朝鮮戦争前後
2002年、金貴玉、現漢城大学教授は、国際シンポジウムで朝鮮戦争前後、韓国政府及び陸軍が2種類の慰安所を設置・運営していたことを明らかにした。軍が調達した韓国軍兵士用慰安婦は、特殊慰安隊又は第5種補給品と呼ばれ、韓国を支援した米軍を含む国連軍兵士用慰安婦は国連慰安婦とか洋公主と呼ばれた(出典:秦郁彦著『慰安婦問題の決算 現代史の深淵』2016年、PHP研究所、p15、51)。彼女たちが公娼だったなら、韓国政府には女性の人権尊重の立場から、それを無視した責任が生まれる。性奴隷だったとしたら、同政府は更に大きな責任を負わなければならないだろう。
(2)ベトナム戦争当時
2015年、山口敬之TBSテレビ・ワシントン支局長は、4月2日号の週刊文春誌上で、ベトナム戦争中に韓国軍が、自国軍兵士(時にアメリカ軍兵士)に利用させるため、トルコ風呂と呼ばれる慰安所を設置運営していたことを明らかにした。慰安婦は皆ベトナム人だった(出典:同上、p16、79)。この事例でも彼女たちが公娼だったなら、韓国政府には女性の人権尊重の立場から、それを無視した責任が生まれる。性奴隷だったとしたら、更に大きな責任を負わなければならないだろう。
Ⅴ 結語
筆者は上記資料の検討及びそれらから推定された慰安所数491軒と慰安婦数5,345人を踏まえ、以下の結論を出した。
1、女性の人権保護の観点から、戦地に慰安所を設置するべきではなかった。日本政府には設置を認可した責任を負うべき非がある。
2、慰安所数491軒と慰安婦数5,345人は、推定に過ぎないとしても、事実に基づく妥当な数字だ。従って韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)や日本国内の有識者が主張する、慰安婦数2万人から20万人との推測に根拠はない。
3、公娼が契約を結び収入を得ていたことなどを考慮すると、挺対協や有識者による慰安婦が性奴隷だったとの主張には根拠がない。II.1で引用した資料A〈上〉「接客業界の統計」は、朝鮮半島内での公娼数を詳述している。これは公娼取り締まり制度が総督府の掛け声だけではなく、定着していたことを示している。彼らの主張はこの事実と矛盾している。つまり、女性が性奴隷だったなら、営業者は脱法行為により彼女たちを斡旋して戦地に連れていったことになる。女性が公娼だったなら、彼女たちは性奴隷ではなかったことになる。他に解釈の余地はない。
4、公娼制度がありながらも、その制度が厳守されない事例があったことに対し、日本政府が謝罪するのは当然だ。しかし、無辜の少女や女性たちを騙し、拉致して人身売買の対象とした張本人の罪科はどう扱うべきなのか。合理的疑いがあるとするだけで良いのか。政府にすべての責任があるという主張は、彼らが日本人であろうと、朝鮮人であろうと、疑義を挟まざるを得ない。法律の専門家がどう反論するとしてもだ。
5、韓国政府が日本政府に対し慰安婦の主張を代弁することには正当性がある。紙幅の制限により本文では言及していないが、慰安婦問題が国連にまで持ち出された現在、韓国政府には慰安婦の実態についての立場を明白にするべき責任がある。
6、現在アメリカの多くの都市やフィリピンやドイツにもいわゆる慰安婦碑や慰安婦像が設置されている。紙幅の制限により本文はこの状況にも言及していないが、韓国政府は設置当事者に対し、慰安婦の実態に関する上記事実関係と碑文内容との整合性を勧告する責任がある。
7、尚、本文ではクマラスワミ報告書が第29段落で引用している吉田清治氏の著書『私の戦争犯罪 朝鮮人強制連行』1983年、三一書房には触れていない。朝鮮女性の強制連行に関する彼の記述が、朝日新聞の検証により2014年8月5日付け記事で『「済州島で連行」証言 裏付け得られず虚偽と判断』として否定されているからだ。マクドゥーガル報告書の付属文書が触れている慰安婦数20万人以上については、本文で詳述しているのでここでは繰り返さない。
以上