Monthly Archives: August 2019

あいちトリエンナーレ「表現の不自由展・その後」『慰安婦』の英訳は『Sex Slave(性奴隷)』

展示中止で話題となった あいちトリエンナーレ2019 の「表現の不自由展・その後」において「慰安婦」を「sex slaves 又はsexual slavery」と英訳して表示した作品が少なくとも3つあります。

日本政府の公式見解は、「(慰安婦を)性奴隷と表現するのは事実に反する」です。

「慰安婦」を「sex slaves 」と英訳する展示に公金を出すべきではありません。

もし、この展示が中止とならず、公的資金を出したとしたら、今後海外で慰安婦像設置の計画が出た時に反対できなくなってしまうでしょう。

2014年に米国加州フラトン市の市立博物館に慰安婦像設置計画がありました。
沢山の反対の署名とメール、手紙、日系二世の方のご協力もあり、大変な苦労で1年がかりで設置取り下げにもちこみました。

私は、実際に「表現の不自由展・その後」の展示を見ておりませんが、展示をご覧になった方で「sex slaves 又はsexual slavery」の英訳にお気づきになった方がいらしたらコンタクトフォームから情報お寄せください。

2019年8月19日
なでしこアクション代表 山本優美子

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「表現の不自由展・その後」における『慰安婦』英訳

<その1> 気合い100連発   Chim↑Pom
https://censorship.social/artists/chimpom/

慰安婦

sex slaves

1-1

1-2

 

<その2>重重-中国に残された朝鮮人日本軍「慰安婦」の女性たち   安世鴻
https://censorship.social/artists/ahn-sehong/

日本軍「慰安婦

the Japanese military sexual slavery

2-1

2-2

 

<その3> 平和の少女像  キム・ソギョン/キム・ウンソン
https://censorship.social/artists/kim-seo-kyung-kim-eun-sung/

(1) 像向かって左、床面の碑文が韓国日本大使館前の像の碑文と同じ(韓・英・日語)
日本軍「慰安婦」問題解決

the solution of Japanese Military Sexual Slavery issue

※韓国日本大使館前 慰安婦像 碑文
韓国日本大使館前慰安婦像碑文R

(英語)December 14,2011 marks the 1000th Wednesday Demonstration for the solution of Japanese Military Sexual Slavery issue after its first rally on January 8, 1992 in front of the Japanese Embassy.
This peace monument stand to commemorate the spirit and the deep history of the Wednesday Demonstration.
(日本語)1992年1月8日、日本軍「慰安婦」問題解決のための水曜デモが、ここ日本大使館前ではじまった。
2011年12月14日、1000回を迎えるにあたり、その崇高な精神と歴史を引き継ぐため、ここに平和の碑を建立する。

(2) 説明文から
慰安婦」被害者

the victims of the Japanese military sexual slavery

(3) 説明文から

本作の作品名は《平和の少女像》(正式名称「平和の碑」。「慰安婦像」ではない)。

The title of this work is Statue of Peace (formal name is Monument of Peace, not Statue of Comfort Women).

※ここだけ英訳がComfort Womenなのは、sexual slavesにすると「性奴隷像ではない」という意味になってしまい、他の英訳と矛盾してしまうからではないでしょうか。

3-1

3-2

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もし、英訳全て『sex slave』を『comfort women』に訂正したとしても、慰安婦像の展示には反対です。

海外の公的施設に設置された同じ慰安婦像(米国加州グレンデールジョージア州ブルックヘブン)の碑文には
・日本軍の性奴隷
・日本帝国軍によって強制的に性奴隷状態にされた200,000人以上
・日本帝国陸軍に奴隷にされた、「慰安婦」と呼ばれる婦女子
・慰安婦は推定数十万人の20世紀最大の人身売買の一つ
・殆どは第二次世界大戦中に殺されました
・少女—拉致された平均16歳の少女

韓国日本大使館前の碑文には
・ Japanese Military Sexual Slavery

と記されています。

それと同じ像を国、県、市の公的資金を投じた美術展に展示することは、上記のような碑文の内容を認めることになります。

1985年8月12日 日航機墜落事故「勝利なき戦い」に挑んだ自衛隊員たち

なでしこアクション代表山本優美子が、日本航空123便墜落事故について以前産経ウェブに書かせていただいた記事(2016.8.11付)です。
事故の起こった8月に多くの方に読んでいただきたく、ここに再掲します。

https://www.sankei.com/premium/news/160807/prm1608070004-n1.html  より

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日航機墜落事故「勝利なき戦い」に挑んだ自衛隊員たちの苦悩を忘れてはなりません

8月になると、8月15日の終戦の日や靖国神社参拝が毎年話題になりますが、私が思い出すのは昭和60年(1985年)8月12日に起きた日本航空123便墜落事故です。ヘリコプターから吊るされた自衛隊員が通称・御巣鷹の尾根(群馬県上野村の高天原山)で生存者を引き揚げて救出している映像が印象に残っている方も多いでしょう。あれは陸上自衛隊の写真ですが、航空自衛隊もまた長野県川上村に救難指揮所を設置して活動をしていました。

犠牲者520名、生存者4名。史上最悪の航空機事故に、航空自衛隊は創設以来最大規模の災害派遣出動に踏み切りました。8月12日の事故発生から8月30日の撤収までの18日間は「勝利なき戦い」と呼ばれていました。私の父は当時、入間基地の副司令であり、現地指揮官を務めました。父の保管している当時の資料を見ると、空の守りから陸に降りた航空自衛官の「勝利なき戦い」の様子がよく分かります。

自衛隊のPKO派遣や阪神大震災、東日本大震災での活躍もあり、今では国民の間で自衛隊に対する理解がずいぶん広まりました。共産党幹部が「防衛費は人を殺すための予算」と発言すると非難されるまでになりました。

しかし、昭和60年当時は今のようなインターネットやSNSによる情報はなく、新聞・テレビなどの大手メディアによる情報がすべてでした。その大半は自衛隊バッシングがメディアの正義だと言わんばかりに、まともな防衛知識もないままに自衛隊批判が繰り広げられていました。

事件発生2日後には、ある大手新聞社が「自衛隊に抗議・疑問続々」という見出しで自衛隊の現地到着が遅かったと批判し、それに続いてデマ・放言のようなバッシングが始まったのです。

自衛隊バッシングに熱心な一部メディアは、救難活動の妨げにもなりました。特ダネを求めて軽装で山中に入った記者やカメラマンが脱水症状を起こして陸自のヘリに救助されたこともありました。着陸許可がないのに新聞社やテレビ局のヘリが、救出活動中の現場空域に進入し、2次災害が起きかねない事態も招きました。現場の記者が正確な記事を書いても、冷房の効いた本社にいるデスクに没にされたり、歪められたりして、現場の記者はその都度に自衛隊に弁解したという話も残っています。

では、メディアが批判したように、本当に自衛隊は現場到着が遅かったのでしょうか?

8月12日18時57分、JAL123便がレーダーから消えた4分後の19時01分に百里基地から戦闘機2機が緊急発進し、19時21分には上空から炎を確認しています。

20時33分に羽田空港から災害派遣要請があると、7分後の20時40分には航空自衛隊入間基地から先遣隊30名が出発しました。日付が変わった13日01時10分には同じ入間基地から548名の派遣隊が出発しています。

現地へ急ぐ派遣隊にとって、最初のハプニングは高速道路料金所で起きました。災害派遣で緊急な出動なのだと説明しても料金所の担当者は「料金を払わねば通せない」の一点張り。結局、自衛隊員が立て替え払いしました。急な出動だったので財布を携帯していない隊員も多く、大型車の通行料3200円の支払いに苦労したそうです。

御巣鷹山の事故現場までは40度近い急斜面を歩かねばなりません。背丈以上ある熊笹の藪を切り開き、ロープを伝いながらの移動で3時間以上かかりました。

現場のあまりに無残な様子におう吐する隊員もいましたが、隊員達はみな懸命に働き、「一刻も早く遺族のもとへ」と肉片となった遺体を丁寧に毛布にくるみました。

「遺品はそのままにしておくようにという指示が出されていましたが、熊笹の中に時計などが落ちてると、このまま永久に見つからなかったら遺族は悲しむと思い、目立つ場所まで動かしました」

「悲惨な現場でも尻込みする者はいなかった。作業終了、下山といっても『もっと残ってやりましょう』、『休憩だ』といっても『いや続けましょう』という」

「夜、宿営地に帰った時には、みな作業服が汗でズブ濡れで疲労でおし黙っている。それでも足を怪我した隊員に翌日は『休め』というと『どうしても行かせてください』と必死でいう」

このような現場報告が残っています。18日間の救難活動に派遣された航空自衛隊の隊員は入間・浜松・百里などの各基地から延べ約1万人。怪我で手当てを受けた隊員はいましたが、脱落者はゼロでした。

こうして厳しい任務を終えて戻ってきた隊員を待っていたのは、メディアによる一方的な自衛隊批判でした。隊員はさぞ驚き、落胆したことでしょう。

そんな中、隊員の励みになったのは派遣部隊の前線基地となった長野県南佐久郡川上村のみなさんの協力でした。到着早々、地元の農家の方々が「隊員のみなさんにビタミンを」と大量の高原野菜を差し入れてくれました。汗まみれで帰ってくる隊員に、村の健康センターのお風呂を提供してくれました。体育館を宿舎として提供した川上第二小学校は始業式を2日遅らせてくれ、児童たちは励ましのお手紙を送ってくれました。

「じえいたいのみなさん、とてもつかれたでしょう。じこげんばにいって、ぼろぼろのいたいをみつけて、たいへんでしたね。学校にとまって、毎朝そうじをしてくれてどうもありがとうございます」

「8月22日の昼食をじえいたいのみなさんといっしょにたべさせていただいて、どうもありがとうございます。カレーやサラダとてもおいしかったです。げんばなどにいっていたいをはこんだりしますか。ああいうところでは、しごともきつくてたいへんだと思います。まいにちあついなかごくろうさまです」

川上第二小学校の中澤弘之校長先生(当時)は学校の記録書にこう残しています。

「隊員と児童のふれあい、この大惨事の中で昼食会や激励会がごく自然の形でなされた。隊の救援活動や児童の学校生活に効果的であった。組織体としての自衛隊の規律ある行動、礼節をわきまえた奉仕の精神、子供たちへの思いやり等、児童に多くの教訓を与えた」

あれから31年。自衛隊創設以来の大規模な災害派遣となった日航機墜落事故が残した教訓は果たして生かされているのでしょうか。

救難活動を安全・円滑に実施するために不可欠となる救援機や取材ヘリなどの空中統制は、航空法で十分に規定されているでしょうか。災害派遣車両を料金所で止めるようなことはさすがになくなりましたが、大規模な災害など緊急事態に対応するための法律は、その後の2つの大震災を経て整備されたでしょうか。自治体と防衛省の役割分担・協力体制は充分構築されているのでしょうか。災害派遣された自衛隊員への手当ては充分でしょうか。不幸にも殉職した場合、残された家族に充分な賞じゅつ金は用意されているのでしょうか。

自衛隊の任務は、自衛隊法第3条にあるように「我が国の平和と独立を守り、国の安全を保つため、我が国を防衛することを主たる任務とし、必要に応じ、公共の秩序の維持に当たるものとする」であり、災害派遣は主任務ではありません。災害時の自衛隊派遣は当たり前だと思われていますが、派遣中も限られた人員で通常の防衛業務も遂行しているのです。

政府は、もの言わぬ自衛官に「勝利なき戦い」を強いてはいませんか。自衛隊がその能力を充分に発揮できるよう、憲法改正とともに法整備を進め、装備や予算も充実させるべきです。それが、日航機事故で亡くなった520名の犠牲者の霊に報いることにもなると私は信じます。

※写真 「中警団新聞 昭和60年(1985年)9月15日」より

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