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自称元慰安婦の解放後生活

長尾秀美氏(元在日米海軍司令部渉外報道専門官、小説家、ノンフィクション作家)より元慰安婦の証言集を調べた論考「自称元慰安婦の解放後生活」をいただきましたので、ご紹介します。

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令和2年(2020年)7月30日

長尾秀美

元在日米海軍司令部渉外報道専門官、小説家、ノンフィクション作家

自称元慰安婦の解放後生活

1.懺悔

私は懺悔する。

私が慰安婦問題に関心を持って以来もう数年になる。三面記事のような吉田清治氏や千田夏光氏の著作を読んだ時、すでに朝日新聞が訂正記事を出していた。したがって官憲が20万人もの女性を戦地へ強制連行し、性奴隷として働かせたという主張には与(くみ)しなかった。戦前戦中に日本や朝鮮半島で悪質な人身売買があったことまでは否定しないが、それは公娼制度下の例外だったと考えている。

昨年春からの拙著や拙論で私は自称元慰安婦の人格について何度か触れた(注1)。それは挺対協(現正義連)によって人権侵害問題の偶像となった彼女たちが自己を引き裂かれ、人格を失ったと考えたからだ。

私の人格への拘(こだわ)りはマハトマ・ガンジーが残した言葉に由来する。

「信念が変われば、思考も変わる。
思考が変われば、言葉も変わる。
言葉が変われば、行動も変わる。
行動が変われば、習慣も変わる。
習慣が変われば、人格も変わる。
人格が変われば、運命も変わる。」

誰しも自分とは何者か、何のために誰のために生きているのかを常に自問する。そこから信念が生まれ、行動により、人格が作り上げられる。これを人の成長と言う。

人生には教育期、勤労期、引退期がある。自称元慰安婦は貧困や教育制度の不備により、教育期を奪われたまま勤労期に入らざるを得なかった。そして長い勤労期を経て引退期を迎えた時、彼女たちを待ち受けていたのが慰安婦問題だった。

そうした流れを振り返り、私は自分の考えが一面的だったことに気が付いた。彼女たちの長い勤労期に焦点を当てることなく人格を論じていたからだ。

2020年5月7日、李容洙氏が口火を切ったことで、挺対協(現正義連)による慰安婦関連募金や政府補助金の使途が大きな問題になった。一方、彼女は「性奴隷」という言葉に対する嫌悪感を表明した。その後一部有識者は彼女たちの生活に一番必要なのは何だったのかを問い直し始めた。

以上の状況を踏まえ、私は、自戒の意味で、自称元慰安婦の解放後生活を振り返りたい。それが私の懺悔だ。大見えを切ったが、私は朝鮮語ができない。したがってここでは下記資料を参照した。

証言集A:韓国挺身隊問題対策協議会・挺身隊研究会編 『証言 強制連行された朝鮮人軍慰安婦たち』(1993年、東京、明石書店) 証言者:19人

証言集BI、BII:『証言 未来への記憶 アジア「慰安婦」証言集-南・北・在日コリア編』アクティブ・ミュージアム「女たちの戦争と平和資料館」編 西野留美子・金富子 責任編集 (2006年、2010年、東京、明石書店) 証言者:12人と14人の26人(そのうち5人は証言集Aと重複)

2.証言集に対する疑問

上記証言集は平均すると1人当たり15~18ページの分量になる。信憑性はさて置き、奴隷のような体験は充分書き尽くされている。ただし証言集全般に関し、いくつかの疑問がある。その前提として、証言集Aの巻頭言を下記に抜粋した。(下線は筆者)

〈発刊に当たって〉 尹貞玉挺対協共同代表
 「真相究明が何よりの急務であろう。過去の新聞や公文書から発見される資料はもちろん重要だ。しかしそれにも劣らず重要なのは、元慰安婦たちの証言である。彼女たちは生きている資料だ。…。
 元慰安婦たちに慰安所での体験を聞くことがむごいことだということは承知している。しかしこの問題は…人間の問題である。…。歴史に記録を残さなければならないと思う。」

〈調査に参加して〉 安秉直ソウル大学経済学部教授
「調査を検討するうえで非常に難しかった点は、証言者の陳述がたびたび論理的に矛盾することであった。…。この中でも調査者たちを困らせたのは、証言者が意図的に事実を歪曲していると思われるケースだった。私たちはこのようなケースに対処するために、調査者の一人ひとりが証言者との間に信頼関係を築くことによってそのような困難を克服しようとした。そうして大部分の場合は意図した成果を得ることができたが、どうしても調査を中断せざるを得ないケースもあった。…。一人の証言者に対し大体五、六回以上の面接調査を行った。
この調査に、いたらなかった点がまったくなかったとは断言しない。なぜなら、軍慰安婦の生活のような、人間以下に扱われた経験をありのままにすべてさらけだして証言するということは、誰にでも難しいことであり、またこのような調査を短い期間のうちに行うことも無理があると思うからだ」

2.1. 当初110人が元慰安婦として登録されたが、証言集Aの調査者が実際に話を聞いたのは半数以下の40人で、出版されたのはその中の19人の証言だった。安教授が書いた「論理的矛盾」と「事実の歪曲」が理由だと推測されるが、なぜ110人→40人→19人になったのかを誰も説明していない。除外された91人は元慰安婦ではなかったのか。

2.2. これも事実歪曲に関連するが、自称元慰安婦はなぜ事実を述べようとしなかったのか。同性の調査者は彼女たちとの信頼関係構築に務め、面接を数回実施したのだから、彼女たちの胸襟を開くことは可能だったはずだ。さらに言えば、彼女たちは自分たちの証言が女性の権利を守り、ひいては社会的正義を追求するためだと理解していたはずだ。

2.3.  19人中、6人の元慰安婦は仮名で証言しているが、そのうち5人はなぜ証言集に写真を掲載したのか。

2.4. 証言集Aの5人と証言集Bの5人の証言は一字一句同じものだ。この重複は証言集Aの残り14人に信憑性がないからなのか。

2.5. 証言集の調査者はなぜ慰安婦問題に関する重要事項一覧表を事前に用意しなかったのか。尹氏が書いた真相究明のためには、各証言を項目別に整理することが不可欠だ。これを徹底していれば、各人が慰安婦になった経緯だけでなく、どのような制度の下に戦地で生活していたのかが可視化されたはずだ。しかし調査者が聞き取りを重視した結果、証言集は慰安婦の言い分の羅列になっている。場所や時期が曖昧なままの証言もある。尹氏が述べた「生きている資料」の価値は半減している。

証言集Bは証言集Aより10数年を経た後で編纂されているが、Aの不備をまったく修正していない。この不備との関連で整理者オ・ヨンジュ氏は以下のように述べている(証言集BⅠ、pp. 237-238)。(下線は筆者)

「ハルモニの話はよくまとまったメモを順番通り読んでいくかのように、空間の移動が比較的正確だった。…。ハルモニは四度にわたるインタビューの間、ほぼ類似した枠をくり返し(*た)。…。しかし、一方ではハルモニの定型化された記憶からいかにして抜け出せるのか、そしてその前にハルモニの記憶がどうしてこのように定型化してしまったのかを悩むようになった。…。
 ハルモニの定型化したインタビューの流れを変えるためには、やむを得ず質問を投げかけるしかなかった。質問には事実的な経験を聞くのではなく、ハルモニの全体的な考えを問うもの、あるいはハルモニの感情の状態を聞く内容を盛り込むことに決めた。」

2.6. 証言集A もBも下記重要事項に対する総合的判断をなぜか留保している。

①戦地の軍慰安所と日本が国際法上統治していた朝鮮半島、台湾、満州にあった遊郭、日本国内にあった遊郭(釜山、新竹、吉林、大阪、富山、沖縄)との違い。

②両親や近親者や配偶者による人身売買(金学順黄錦周李用女朴順愛李桂月李玉善)、身分証明書(朴酉年)、年季(韓国在住の李相玉朴順愛)、給料(韓国在住の李相玉朴酉年、金順玉)、貯金や送金(文玉珠朴順愛朴酉年河床淑)、手紙の遣り取り(文玉珠朴頭理吉元玉)、外出時の買い物、観劇など行動の制限(呉五穆文玉珠李得南朴頭理)の有無。

③朝鮮人が慰安婦を仲介し、戦地へ引率し、慰安所を経営していた事例。アーチ—・宮本退役米陸軍中佐は、日本の外務省領事部公文書を引用し、朝鮮人慰安婦を擁する慰安所を運営していたのは朝鮮人で、日本人慰安婦を擁する慰安所を運営していたのは日本人だったと書いている(注2)。

3. 調査の限界と拡大解釈

証言集Aにより、19人の自称元慰安婦は当初名乗り出た110人、最終的に名乗り出た総数の239人、そして一部で主張されている拉致された20万人の慰安婦全員の代表となった。その意味では挺対協の意図は成功した。

日本の報道機関はしばしば世論調査を実施する。信頼区間や信頼水準を考慮し、無作為抽出による2,000人ほどの被調査者(母集団)に対し、通常、5割ほどの回答に基づき、その結果を民意として発表している。

自称元慰安婦の場合、証言集AおよびBの40人は、110人、239人、あるいは20万人を母集団とする女性から無作為に抽出したものではない。したがって、証言内容には当初からバイアス(偏り)がある。つまりその40人は独自に母集団を形成するので、他の慰安婦全員を含めるという拡大解釈をするべきではない。これが調査の限界となる。

自称元慰安婦が語った「人間以下に扱われた経験」については、第三者による供述証拠を欠く自己主張に過ぎない。証言全体を眺めると、彼女たちの多くが悪質な斡旋業者と慰安所・遊廓経営者の犠牲になったと結論するのが妥当となる。

4.解放後の生活

40人の自称元慰安婦は多少なりとも帰国後の生活を語っている。彼女たちの証言には信憑性がある。なぜなら「論理的矛盾」や「事実の歪曲」を実生活に加えても、日本政府を糾弾する補強証拠にならないからだ。

証言集AおよびBの調査者は、面接時の彼女たちの生活状況に少しは留意していたようだ。彼女たちの生活が一般女性と比べてより苦しければ、その現実と慰安婦という過去に因果関係があると結論付けることができるからだ。

4.1. 朝鮮半島の歴史事情

1945年8月、連合国が勝利したことにより、朝鮮半島は日本から解放された。ところが連合国の思惑により、半島は北緯38度線を境に韓国と北朝鮮とに分断された。北朝鮮は全体主義の道を歩み、韓国は民主主義の道へと進んだ。1950年から3年間は全土が戦争に巻き込まれ、1953年には休戦協定が結ばれた。しかし、朝鮮人は自由に南北を往来することができなかった。韓国社会が高度経済成長の道を歩み始めたのは朴正熙大統領が就任してからの1960年代半ばからだ。1970年代には朴正熙大統領が暗殺されたが、1980年代になってから民主化が進んだ。民主化により女性が発言する機会も増えた。

4.2. 慰安婦就業期間と帰国時期および結婚と出産の有無

自称元慰安婦の就業期間と帰国時期および結婚と出産などについての記録を表〈1〉に抜粋した。

4.2.1. 慰安婦就業期間

自称元慰安婦は、人身売買や就職詐欺や金儲けなどの理由で故郷を離れた。慰安所・遊廓にいた期間は、最短だと2カ月から半年、最長だと9年、平均すると3年3カ月ほどだった。祖国解放後、現地にそのまま定住した女性が数人いるが、数十年後に帰国した女性もいる。

4.2.2. 結婚と出産

生涯独身を通した自称元慰安婦の多くは、尹頭理氏や張秀月氏のように自分の処女性や貞淑さを汚(けが)されたことを強く意識している。これは14世紀末より続いた両班による統治と家父長制にも関連する儒教(守節や殉節による夫への貞節と親への考節)で培われたものだと推測される。しかし当時の日本や他の国でも男尊女卑が一般的だったし、女性は貞操観念を持たされていた。

彼女たちの生涯未婚率は8÷40x100=20%となり、現在の日本(2015年の国勢調査資料:男子23.4%、女子14.1%)に比べるとかなり高い。

異郷での経験は必ずしも彼女たちを男性不信にしていない。これは帰国時に彼女たちがまだ若く、周囲から結婚相手を見つけるようにと言われたからのようだ。29人は伴侶あるいは一緒に住む相手を見つけている。

一方、夫婦間の不妊率は一般的に10%くらいだと言われているが、2015年に実施された日本の国立社会保障・人口問題研究所の調査では、29.3%の夫婦が不妊を心配している。数十年前と比較するのは無理があるが、自称元慰安婦の不妊率は8÷29x100=27.5%となる。これらの数値を比べると、1日に20~30人の軍人を相手にしたとされる慰安婦経験が不妊の原因だという即断はできない。11人は1度ならず出産している。

なお、伴侶などの有無に拘わらず、彼女たち12人が養子を迎えて育てている。この事実は、母性本能や社会生活に対する欲求に関わるものだと推測される。解放後の困難な社会情勢の中、この事実は特記するべきだし、社会的に評価されるべきだ。

結婚、妾(愛人)、同棲:29人(慰安婦前の結婚を除く、1人は同居のみ)
独身:8人
不明:3人

出産―11人
不妊―8人(流産1人を含む)
結婚直後に夫が行方不明―1人
不明―3人

養子養育―12人

表〈1〉(*自称元慰安婦の名前の色分けは証言集AとBとでの重複を表示するため)

証言集A

金学順1941年秋までの3カ月。1946年6月帰国:結婚、娘1人息子1人
金徳鎮(仮名―写真):1937年~1940年2月、3月。1カ月後帰国:として息子2人娘1人を養育
李英淑:1939年12月~1945年8月。1946年1月帰国:同棲、不妊、離婚
河順女:1940年(1938年)~1942年。1946年帰国:同棲
呉五穆:1937年~1945年。同年帰国:後妻、不妊、離婚、養女養育
黄錦周 1941年~1945年。同年12月初め帰国:孤児3人養育、独身
文必ギ(王編に基) 1943年~1945年8月。帰国:妾、妹の孫養育
李容洙:1945年1月~8月。1946年春帰国:結婚(89年)、離婚
李玉粉:1942年~1945年8月。1947年帰国:独身
文玉珠1940年~1941年、1942年7月~1945年8月10日。同年帰国:2度結婚、前夫の息子を養子
李順玉(仮名―写真)慰安婦前、戸籍上結婚と離婚:1938年~1944年末。1945年初頭帰国:同棲
李相玉(韓国)(北朝鮮慰安婦と同姓同名): 1936年~1942年、1946年12月帰国:結婚、流産
李得南(仮名―写真)1939年~1942年。1945年秋帰国:妹の子供養育、独身
李用女:1942年~1945年。1946年4月帰国:同棲、不妊、相手の息子を養子
金台善(仮名―写真なし)1944年11月~12月。1945年帰国:同棲、娘2人
朴順愛(仮名―写真): 慰安婦前結婚、息子出産、夫に売られる:1942年~1943年末。1944年1月帰国:解放後再婚、子供3人
崔明順(仮名―写真):1945年1月~7月。同年末帰国:結婚、息子出産:再婚、娘3人息子1人
姜徳景1944年秋~1945年8月。慰安婦中、出産:1946年1月帰国:独身
尹頭理:1943年9月~1945年8月、その間は釜山:独身

証言集BI

朴永心(北朝鮮):1938年8月~1944年9月。解放後(?)北朝鮮へ :結婚、不妊、孤児養子
宋神道:慰安婦前結婚、慰安婦中4人出産:1938年~1945年。解放後宮城に:男性と同居
金学順
李桂月(北朝鮮):1937年~1939年3月。1940年末(?)北朝鮮へ:独身、養子
郭金女(北朝鮮):1939年秋~1941年11月。解放後故郷には戻れず北朝鮮へ:結婚、子供1人
朴頭理: 1940年~1945年。同年帰国:妾、本妻、息子1人娘3人
金英淑(北朝鮮):1940年~1945年春。1946年北朝鮮に帰国:結婚、不妊
黄錦周
朴玉善:1941年~1945年。解放後、朝鮮族部落へ、2001年帰国:結婚、娘1人息子1人
李玉善:1943年~1945年。2000年帰国:結婚直後、夫行方不明
文必ギ
姜徳景

証言集BⅡ

朴酉年:1939年8月~1945年。1946年3月帰国:同棲、息子1人、養女数人、再同棲
沈達蓮:1939-40年~1945年。(?)年帰国:不明
吉元玉:1940-41年~1945年(一時帰国在り)。解放後帰国:結婚、家出、歌のファンと同棲、養子
文玉珠
張秀月(北朝鮮): 1941年9月~1945年6月。解放前帰国:独身
金福童:1941年~1945年。解放後帰国:結婚、不妊、再婚
金君子:1942年3月~1945年。解放後、38度線を越え、帰国:同棲
金ソラン:1944年~1945年。解放後帰国:結婚、息子3人、離婚、再婚、中絶6回
李相玉(北朝鮮):1943年~(?)年逃走、解放後北朝鮮へ:不明
姜日出:1944年~1945年。解放後、吉林に住み、2000年帰国:結婚、息子1人、再婚、娘1人息子2人
李宗女(北朝鮮)1943年7月~1945年。解放後生活の言及なし:不明
裴奉奇:慰安婦前、2度結婚:1944年~1945年3月。以後沖縄に住む、独身
河床淑:1944年5月~1945年。解放後中国在住:同棲、不妊、同棲、結婚、不妊
金順玉:1943年~1945年(?)。解放後中国在住、2005年帰国:結婚、娘2人息子1人再婚、娘2人、男子養子。

4.3. 職業

現地に残った女性を除き、自称元慰安婦のほとんどは帰国直後に故郷へ帰った。実家に両親などが健在だった場合もあり、行方不明だった場合もある。無一文では帰省できないと考え、釜山や仁川に上陸後、就職した例もある。多くの女性は職業を転々と変えているが、一カ所に定着し、成功した例もある。他人の保証人となり、築き上げた財産を失った例もある。結婚、妾、養女、後妻、同棲により、家事に専念した女性も数人いる。彼女たちは混乱の時代を必死に生き抜いて1990年代を迎えた。批判を受けるのを承知で言うが、彼女たちの生き様(ざま)は称賛に値する。

彼女たちが従事した職業は以下の通りだ。

アヘン売買、アメリカ製品販売、衣料品行商、飲食店経営、飲食店従業員、貸金業、家事手伝い(家政婦)、歌手、看護師、妓生、木こり、協同組合・協同農場従業員(北朝鮮)、下宿屋営業、工場務め、魚売り、酒造り、雑貨屋経営、女中、畑仕事、米軍相手の慰安婦、保険勧誘員、密輸品売買、野菜売り、屋台営業、闇ドル商売、養蚕、旅館経営など

補足だが、韓国在住の自称元慰安婦の9人は調査時点で生活保護を受けている。北朝鮮在住の6人うち、少なくとも2人は同様の保護を受けているようだ。

5. 人生に対する述懐

以下に抜粋したのは自称元慰安婦数人の人生に対する考え方だ。惜しまれるのは、調査者が彼女たちの人格を描こうとしなかったことだ。それらしい記述は多くても数行ずつしかない。彼女たちの強固な意志と長い経験に裏打ちされた考え方は、人生に関する卓越した知見を老若男女に与えたかもしれない。(下線は筆者)

金徳鎮: 「日本も悪いけれど、その手先をした朝鮮人はもっと憎い。韓国政府に言いたいことがたくさんあります。韓国政府も私たちに補償してくれなければなりません。」

李英淑:「日本人だけでなく、朝鮮人も自分が生きて行くために人を踏みつけてきたのだから、悪いのは同じだと思います。…。補償が出ようと出まいと関係ありません。いつ死ぬかわからない身だからです」。

黄錦周:「いまからでも、他人から無視されずに残された人生を、苦しい人達の手助けをしながら、他人の世話にならずに生きて死ねたらと願っています」。

李得南:「人間は、持って生まれた運命に順応して生きればいい。それ以上望みを大きくして欲張ると、今の幸せも逃してしまう。私にはもう大きな望みはありません。昔は大変激しい性格でしたが、若い人生をあのような場所で生きてきたので、今は人と会うのも怖いし、ただ静かに一人でいたいです。」

金台善:「すべて先祖たちの罪悪の性だと思います。生まれた国があまりにも貧しかったからでしょう。私が当時(若い時)結婚していたとしても、慰安婦になっていたかもしれないし、そんな時代に生まれたのが私の運命だと思います」。

朴順愛:「私はこれから先、祖国が発展するのに少しでも役立てばと願って申告したのでした。私たちの民族が二度と他の国の奴隷になってはいけないのです。」

尹頭理:「もう一度女に生まれ変わりたい。今のようにいい世の中で、いい両親のもとで勉強をいっぱいして、いい人のところに嫁に行き子どもを産みたい。」

沈達蓮:「うちの仏さまはほんとに霊験あらたかなんですよ。それで、私は毎日に、知恵が浮かぶようにしてくださいますよ、ご本尊様がなんとかして人間になるようにして下さって、他の人ともいっしょに付き合っていけるようにして下さるから、毎日すごせるんです。」

吉元玉:見知らぬ女性が産んだ子を養子にしたことについて、「息子に神学大学の大学院まで行かせた。天のお父様に感謝」。

金ソラン:「(今の夫)は大学も卒業していました。(姉を通じ、過去を打ち明けた後)それでも私がいいって言ってくれたのです。〝過去のことなのに、何が問題なのか〟と。私は心の中で〝本当に勉強した人は違うんだな〟と思いました。」

姜日出:「従軍慰安婦は金を稼ぐために行った我々は強制的に無理やり連れて行かれた慰安婦。」

河床淑:「私は1962年から10年ちょっと前まで、紡績工場で働いた。仕事を模範的によくやると新聞にも出た。中国人の工場で、ちょっとでも仕事ができなければ、朝鮮人は仕事もできないといわれるからと思って、熱心に働いた。1992年には、和やかなよい家庭だという賞ももらった。」

(補足)姜徳景:1992年、ナヌムの家に入居後、絵画に手を染める。

6. 挺対協の方針と考察

挺対協には日本を糾弾するという大義名分があるので、自称元慰安婦個々人の生活は二の次だったかもしれない。しかし先に述べたように、9人が生活保護を受けていた。研究者の多くは、「その事実こそ彼女たちの過去に起因する。だからその原因を作った加害者に正義の鉄槌を下さなければならない」と主張するだろう。挺対協による鳴り物入りの運動は実際に彼女たちの境遇を改善したのだろうか。募金の一部を彼女たちに支給し、支援施設ナヌムの家を提供しただけで彼女たちは満足したのだろうか。

同施設職員の矢嶋宰国際室長は、2020年5月28日、共同通信に対し、「ナヌムの家が、寄付金を入居する被害者のために使っていない」と内部告発している。その矢嶋氏は、2005年、入居者に関する興味深い観察を小論に書いている(証言集BI、pp. 255-257)が、これを境遇の改善とは言わない。

 「(9人しかいない自称元慰安婦同士で)お互いの意地をかけた口喧嘩が展開される。私に言わせれば、普通(そこらにいる普通のおばあちゃん)どころかその何倍も姑息で欲深でめったなことではへこたれない、怖いものなし揃いだ。人間だれしも裏と表の顔を持っているわけだが、ここの女性たちが見せる裏の顔は一緒にいるものをとてつもなく不快にさせると同時に、愉快にもしてくれる」

本来、挺対協の運動方針の柱は、

(1)日本政府の責任を追及し、謝罪させ、損害を賠償させる、
(2)自称元慰安婦の生活を物心両面で支援する、

で、その2つは荷車の両輪として推進されるべきものだった。

挺対協は彼女たちを国内の水曜デモなどに参加させたり、国外で慰安婦碑や慰安婦像関連の行事に参加させたり、議会などの証言台に立たせたりした。たしかに彼女たちの体験を公けにすることで、日本を含め、世界に人権侵害を訴えることはできた。(1)はほぼ成功している。

慰安婦問題について鄭鎮星ソウル大学教授は、『被害者のための〝具体的な〟解決策を求めて』という小論で、「(慰安婦)制度を産出した社会的条件である戦争と民族差別、家父長制をなくすことがより根本的な解決策になるだろう」と述べている(証言集BⅡ、pp. 381)。

鄭教授が述べたやや抽象的な3つの要因を簡単に考察する。①戦争とは人類普遍の利害の衝突から発生するので、地政学的観点からは必ずしも日本だけに非があるわけではない。②民族差別とは日本が朝鮮半島を植民地化したことに起因するもので、日本人に対し、朝鮮人を二級市民として扱ったことに対する批判だ。近世の植民地帝国主義の下、西洋諸国はどこにおいても現地人を搾取した。この事実は日本の免罪符にはならない。③家父長制度は近代まで国を問わず存在していた。殊に朝鮮半島の場合、同制度は5世紀にもわたる李朝時代の遺産として大きな影響を朝鮮人に与えてきた。この要件を日本の責任だとするのは妥当ではない。蛇足になるが、慰安婦制度は朝鮮半島が起源ではなく、江戸時代からの売春制度が発展したものとして認識する必要がある。

以上の事柄を勘案すると、鄭教授の解決策は挺対協が将来取り組むべき課題だと解釈される。したがって彼の持論を(1)と同列に置いて捉えるべきではない。

では(2)はどうか。内面的欲求や生活安定に関する限り、挺対協は引退期を迎えていた彼女たちを満足させてきたとは言い難い。彼女たちの行動や意思決定にまで干渉し、彼女たちを偶像化させることで自我を引き裂いた。言い換えると、彼女たちは言論人に利用されるだけの道具になり、人生に対する自分自身の知見を誇りに思うような機会は与えられなかった

誠実な人と不誠実な人、双方ともに歴史に名を連ねはする。世間が評価するのは前者で、後者ではない。挺対協は判断を誤り、拭いきれない汚点を残した。現時点で今回の不正経理騒動がどう落ち着くかは不明だが、挺対協を引き継いだ正義連は、どのような形にしろ、出発点に戻り、(2)を再考し、具体策を講じなければならない。時間はない。

「真実」には心地良い響きがあるけれど、「真実の糊塗(こと)」はいただけない。

最後に断っておく。人権侵害行為に対しては責任の所在を追求しなければならない。朝鮮女性が慰安婦として戦地で働くことになったのは、日本政府が朝鮮半島に公娼制度を導入した1916年以降、戦域を拡大したことによる。同制度は慰安婦の権利を保護するために慰安所経営者にいくつかの義務を負わせているが、制度自体は人身売買を間接的に認めるものだ。したがって当時の日本政府に落ち度がなかったとは言えない。しかし、今日的な観点から同制度を批判するのは妥当ではない。自称元慰安婦が語った「人間以下の扱い」については、貪欲な慰安所・売春宿経営者による不法行為を追及するのが妥当だ

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注1:『慰安婦(公娼)関連用語―解説』(2019年4月)、『映画「主戦場」について』(2020年3月)、『Korean Puzzle』(2020年4月)、『正義連騒動の展開』(2020年6月)、『自称元慰安婦、李容洙氏の叫びとは』(2020年6月)

注2:Miyamoto, Archie. (2017). Wartime Military Records on Comfort Women. 2d Edition. Amazon Fulfillment, pp. 37-39

Life of the Self-Proclaimed Comfort Women after Motherland Liberation

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July 30, 2020

Hidemi Nagao

( Former Civil and Media Liaison Officer of the Commander U.S. Naval Forces, Japan, Novelist and Non-fiction Writer )

Life of the Self-Proclaimed Comfort Women after Motherland Liberation

  1. Repentance

I would like to repent my unilateral preconception.

It has been several years since I got interested in the comfort women issue of the wartime.  When I read books of hilarious episodes written by Seiji Yoshida and Kako Senda, the Asahi Shimbun, a Japanese daily, had already retracted over a dozen articles regarding Yoshida’s fictions.  I, therefore, did not side with a claim that the Japanese authorities had abducted 200,000 women to make them work as sexual slaves in warfront.  Though I dare not deny some cases in which brokers trafficked women from both Japan and the Korean Peninsula to warfront.  I consider the cases as exceptions in the days when the prostitution license system was in place.

I authored a few books and opinion pieces since early 2019 in which I specifically discussed personality of the self-proclaimed comfort women in Korea.1  It is because I thought they had their “self” divided and lost their personality by becoming a group icon of the human rights violation issue.

My focus on personality of those women derives from what Mahatma Gandhi said about one’s belief and personality.

“Carefully watch your thoughts, for they become your words.  Manage and watch your words, for they will become your actions.  Consider and judge your actions, for they have become your habits.  Acknowledge and watch your habits, for they shall become your values.  Understand and embrace your values, for they become your destiny.”

Ordinary people always question themselves who they are and for what and for whom they live.  The struggle of questioning makes them strengthen their belief, which translates into action and builds personality.  This is what personal growth is about.

Life of people begins with a period of education and proceeds to a period of work prior to reaching a period of retirement.  The self-proclaimed women had to enter the period of work, being deprived of a full period of education partly due to family poverty and partly due to the inadequate education system.  What awaited them in the period of retirement—after the long period of work—was the comfort women issue.

As I reflected on a span of their life, I have realized that my thoughts were unilateral.  For, I discussed their personality without paying any attention to their long period of work.

On May 7, 2020, Lee Yong-soo broke the ice, which led to uncovering of dubious spending practices of the Korean Council for Women Drafted for Military Sexual Slavery by Japan (Korean Council hereinafter) regarding comfort women donations and government subsidies.  Lee also publicly said she had detested the pronominal phrase, “Sexual Slave.”  A while later, some intellectuals began to question anew what those women truly needed for their life.

Based on the circumstances above and my carelessness, I will review the life of the self-proclaimed comfort women after the liberation of their homeland.  This is what I meant by repentance.  Problem is I cannot read or speak the Korean language though I have just made a solemn pledge.  To compensate for my inability, I carefully review herein translated versions of those women’s testimonies that are contained in books below.

Book A: The Korean Council for the Women Drafted for Military Sexual Slavery by Japan and the Study Committee on the Volunteer Corps (Ed.). (1993). “Shogen: Kyosei Renko Sareta Chosenjin Gun Ianfu Tachi” [Testimonies of comfort women forcibly taken by the military] (author translation). (The Uri-Yeoseong Network on Military Comfort Women Issues, Trans.). Tokyo. Akashi Publishing.  Book A contains 19 testimonies.

Book BI and BII: Nishino, Rumiko & Kim, Puja. Women’s Active Museum on War and Peace (Ed.) (2006, 2010). “Shogen: Mirai heno Kioku Asia ‘Ianfu’ Shogenshu Parts I & II—Minami-Kita Zainichi Koreans” [Collection of Witness Statements of Asian Comfort Women, Memories for Future Regarding North and South Korea and Japan] (a/t). Tokyo. Akashi Publishing.  Book BI and BII contains 26 testimonies, 5 of which are copied from Book A.

  1. Questions to Books A and BI & BII

Each testimony is about 15 to 18 pages long on the average.  The experiences of the self-proclaimed comfort women, as sexual slaves, are fully detailed, regardless of the credibility of the testimonies.  I have a few questions about them.  I provide the following excerpts as a premise of my misgivings (underlined by author).

Yun Chung-ok, Co-representative of the Korean Council, wrote in Preface of Book A (author translation, a/t hereinafter):

“It is urgent for us to reveal the whole truth.  Materials found in newspapers and official documents are certainly important, however, testimonies of the former comfort women are no less important than those materials.  They are living witnesses of those days with both physical and mental disorders.  …  We are aware how difficult it is for them to reveal what really happened at comfort stations.  But the issue we have on hand is a serious matter that pertains to human beings.  …  I think we must get their life stories down on paper.”

Professor An Byeong-jik of the Economic Faculty of the Seoul University wrote in Forward also in Book A (a/t):

“While reviewing investigation results, we found it most difficult to reconstruct one’s testimonies because what she had said was oftentimes logically contradictory.  …  The most annoying thing the investigators experienced was when they noticed the interviewees intentionally distorting facts.  To overcome such cases, each of us tried hard to build confidence with each interviewee.  Our efforts were rewarded in most cases, however, there were cases in which investigators had to quit interviewing halfway through.

              We conducted an interview more than five or six times for each woman.

              I do not claim our investigations are flawless.  For, as in the case of comfort women, I think it difficult for anyone who was treated as a subhuman to narrate everything she had gone through.  I also think it impossible for us to complete investigations in a short time (*underlined by author).”

2.1.        Investigations of Book A heard stories of 40 women though as many as 110 women were registered as former comfort women in the early days.  The Korean Council published testimonies of only 19 women.  This may be attributable to “logical contradictions” and “intentional distortions of facts” Professor An mentioned.  No one, however, explained why the published accounts were reduced from 110 to 40 to 19.  Does it mean the rest, 91, were not comfort women?

2.2.        This question also relates to the “intentional distortions of facts.”  Why did those women dare not tell facts?  Having female investigators interview them, building confidence with them, and holding interviews more than a few times should have made it possible for them to come out of their shell.  Besides, they knew their testimonies were supposed to protect women’s rights and, furthermore, pursue social justice.

2.3.        Six of the 19 women used pseudonyms in Book A.  Why did five of them have their photographic portraits shown on the first page of their testimonies?

2.4.        Five testimonies in Book B are copied, word for word, from Book A.  Does it mean 14 others in Book A are not trustworthy?  Either way, the total number of the women in both Book A and Book BI and BII is not 45 but 40.  It must be noted there are two different women whose names are identical.

2.5.        Why did the investigators not prepare a list of key issues in advance?  It is vital to reveal the whole truth—as Professor Yun mentioned—by organizing key issues by category.  Putting things in order would have visualize not only the how and why the women became comfort women but also the how and under what system they made a living at each comfort station in warfront.  It is unfortunate that the testimonies portrayed a litany of complaints because the investigators were merely in listen-only mode toward the women.  There are cases in which time and place remained unknown.  The significance of the “living witnesses” emphasized by Professor Yun did not bear fruit, if not wasted.

Books BI and BII compiled more than a decade after Book A was published did not correct the inadequacy of systematic approaches observed in Book A.  As for the inadequacy mentioned above, O Yon-ju, one of the editors, made the following comment (Book BI, pp. 237-238) (*underlined by author).

“Stories I heard from a halmoni (*grandmother in Korean) sounded like reading a prepared statement written in a concise and orderly manner.  She narrated each event, following closely the passage of time.  I interviewed her four times; she repeated her accounts almost in the same way.  In the meantime, her memories began to bother me because they had been fixed in a certain pattern.  I sort of struggled to find out means to make her talk about other things.

              I was compelled, during an interview, to ask questions to change the set flow of her thoughts.  Giving up listening to her experience, I decided to start questioning her about general ideas of things or about her emotional conditions.”

2.6.        Both Books A and BI and BII failed to make a comprehensive conclusion to the key issues listed below.

(1) The difference between comfort stations in warfront and brothels in Korea, Taiwan, Manchuria—which were internationally recognized as under Japanese rule—and Japan.  Those in the latter were Pusan (Korea), Hsinchu (Taiwan), Jilin (Manchuria), and Osaka/Toyama/Okinawa (Japan).

(2) The presence or absence of the following matters: trade of women by parents, family members, or husbands (Kim Hak-sun, Hwang Geum-Joo, Lee Yong-nyeo, Park Sun-e, Lee Gye-wol, Lee Ok-pun); identification papers (Park You-nian); term of employment (Lee Sang-ok of South Korea, Park Sun-e); earnings (Lee Sang-ok of South Korea, Park You-nian, Kim Sun-ok); savings and transfer of money home (Moon Ok-chu, Park Sun-e, Park You-nian, Ha Sang-suk); exchange of correspondence (Moon Ok-chu, Park Do-ri, Gil Won-ok); and liberty restrictions such as going for shopping and watching movies (O O-mok, Moon Ok-chu, Lee Tok-nam, Park Do-ri).

(3) Those cases in which the Koreans brokered and accompanied Korean women to warfront and ran comfort stations for themselves.  As Lt. Col. Archie Miyamoto, Lt. Col. of the U.S. Army (Ret.), wrote by referencing Japan’s Foreign Ministry consulate documents, it is the Koreans who managed comfort stations with Korean women while it is the Japanese who operated comfort stations with Japanese women.2

  1. Limitations of the investigations and stretched interpretations

Commercial publication of Book A brought about a result that 19 women represented 110 women who stood up at the beginning, 239 women who were officially registered by the South Korean government, and finally 200,000 women whom more than a few individuals and groups claim.  In this sense, the Korean Council achieved its objective.

The Japanese mass media often conduct public opinion polls.  They normally consider confidence interval and confidence level of a population, randomly contact approximately 2,000 persons, and come up with representative opinions based on the collect responses from 50% or so of the surveyed,

In the case of the self-proclaimed comfort women, the 40 women in Books A and BI and BII are not randomly sampled from a population of, say, 110, 239, or 200,000.  Their testimonies, therefore, contain sample coverage bias.  Because those 40 women independently comprise the whole population for themselves, it should not be stretched to interpret that they are a part of all other comfort women.  What it points to is the limitation of the investigations.

As for the stereotypical statement of those 40 women that they had been treated as subhuman, it should be merely interpreted as their claim because of lack of testimonial evidence provided by third parties.   It is, therefore, appropriate—from the vantage point of a big picture—to conclude that many a woman in Books A and BI and BII fell victim to malicious brokers and operators of comfort stations/brothels.

  1. Life of the self-proclaimed comfort women in post-liberation days

Those 40 women gave, in a greater or lesser degree, their accounts of life after the Korean Peninsula was liberated.  There is no reason to question the credibility of their accounts.  For, adding the “illogical contradictory statements and distortion of facts” to their post-liberation days would not serve as any corroborating evidence to accuse the Japanese government.

The investigators seem to have paid some attention to the women’s life at the time of the interviews.  Their assumption was probably that those women were living a life tougher than common women were because of their sufferings in the past.

4.1.        Historical background of the Korean Peninsula

The Allied Powers defeated Japan in August 1945, which liberated the Korean peninsula from Japan’s rule.  The conflicts of interest of the Allied Powers, however, divided the peninsula into South Korea and North Korea over the 38th parallel.  North Korea proceeded under the totalitarian regime while South Korea tried to build a democratic system.  The Korean War broke out and continued for three years from 1950 till the armistice agreement was signed in 1953.  The Koreans, as a result, could not freely cross the north-south border.  It was since mid-1960s when South Korea began to enter a high economic growth period under President Park Chun-hee.  Though the president was assassinated in 1970s, the nation was committed to democratization from 1980s.  The democratization provided women with opportunities to voice their opinion.

4.2.        Periods as comfort women, time of returning home, and marriage and childbirth

Table (1) below shows testimonial data of the periods as comfort women and the year they returned home as well as their marriage and childbirth.

4.2.1.    Periods as comfort women

The self-proclaimed comfort women left home after being traded for money, by deception, or for making money.  The periods they were at comfort stations or brothels vary from two months to a half year for the shortest, nine years for the longest, with the average of approximately three years and four months.  More than a few of them stayed where they were after the motherland liberation, some of whom got repatriated decades later.

4.2.2.    Marriage and childbirth

Most of the women who stayed single were strongly ashamed of their blemished virginity and chastity as Yun Do-ri and Jang Soo-wol narrated.  Their belief is probably nurtured by Confucian values to respect one’s husband and parents that had been prevailing since the days of Joseon Dynasty which was characterized by the Yangban class and patriarchy.  Misogyny, however, was generally observed both in Japan and other nations while chastity was imposed upon women.

Those who stayed single were 20% of the total women (8÷40╳100).  This rate seems to be higher in comparison of Japan’s national census statistics of 2015: Men is 23.4% and Women 14.1%.

Their enduring hardships under foreign sky did not necessarily make them distrust for men.  Those women were young when they returned home.  Quite a few of them were encouraged by their families and neighbors to get married.  29 women found their spouses or partners to live with.

As for an infertility rate among couples, it is generally believed to be about 10%.  A 2015 survey done by Japan’s National Institute of Population and Social Security and Research indicates as many as 29.3% of them were concerned about their infertility.  It may not be appropriate to compare the situation of decades ago to today, those women’s infertility rate comes to approximately 27.5%.  This rate does not draw a quick conclusion that their infertility is attributable to their employment practice; most of them claim they had tended to as many as 20 to 30 men a day.  Yet, 11 of them had become pregnant and delivered babies more than once.

12 of them adopted children regardless of the presence of partners.  It is believed to be attributable to their maternal instinct and their want of a social life structure.  That fact should be understood as noteworthy and socially commendable despite the social turmoil they went through after the liberation of the motherland.

Married, concubine, or cohabitation: 29 (excepting marriages prior to becoming comfort women; one of them only lived with a partner)

Single: 8
Unknown: 3

Childbirths: 11
Infertile: 8 (including one miscarriage)
A husband went missing immediately after marriage: 1
Unknown: 3

Adoption of children: 12

Table (1)

Book A:

  1. Kim Hak-sun: For 3 months till fall of 1941; married, one daughter and one son; returned home in June 1946
  1. Kim Tok-jin: 1937-1940 (February or March); returned home a month or so later; concubine, two sons and one daughter
  1. Lee Yon-suk: 1939 (December)-1945 (August); returned home in January1946; co-habitation, infertile, divorced
  1. Ha Sun-nyeo: 1940 (or 1938)-1942; returned home in 1946; co-habitation
  1. O O-mok: 1937-1945; returned home in 1945; married to a widower, infertile, divorced, adopted a girl
  1. Hwang Geum-Joo: 1941-1945; returned home in early December 1945; single, adopted three orphans
  1. Moon Bil-gi: 1943-1945; returned home in August 1945; concubine, reared younger sister’s grandchild
  1. Lee Yong-soo: 1945 (January)-1945 (August); returned home in 1946; married in 1989, divorced
  1. Lee Ok-pun: 1942-1945 (August); returned home in 1947; single
  1. Moon Ok-chu: 1940-1941, 1942 (July)-1945 (August); returned home in 1945; married twice, adopted the former husband’s son
  1. Lee Sun-ok: Married and divorced before 1938, 1938-1944; returned home in early 1945; cohabitation
  1. Lee Sang-ok: 1936-1942; returned home in December 1946; married, miscarried
  1. Lee Tok-nam: 1939-1942; returned home in 1945; Single, adopted younger sister’s child
  1. Lee Yong-nyeo: 1942-1945; returned home in April 1946; cohabitation, infertile, adopted her partner’s son
  1. Kim Te-son: 1944 (November-December); returned home in 1945; cohabitation, two daughters
  1. Park Sun-e: Married and delivered a son before 1942, traded by her husband; 1942-end of 1943; returned home in January 1944; married, three children
  1. Choi Myong-sun: 1945 (January-July); returned home in 1945; married, one son, remarried, three daughters and a son
  1. Kang Duk-kyung: 1944 (fall)-1945 (August); one child before 1945; returned home in January 1946; single
  1. Yun Do-ri: 1943 (September)-1945 (August); did not leave Pusan; single

Book BI:

  1. Park Yong-sim: 1938 (August)-1944 (September); returned to North Korea; married, infertile, adopted an orphan
  1. Song Sin-do: Married before 1938, four children before 1945, 1938-1945; went to Miyagi, Japan; lived with a partner
  1. Kim Hak-sun (*mentioned earlier)
  1. Lee Gye-wol: 1937-1939 (March); returned to North Korea at the end of 1940; single, adopted a child
  1. Kak Kim-nyeo: 1939 (fall)-1941 (November); went to North Korea; married, a child
  1. Park Do-ri: 1940-1945; returned home in 1945; concubine, married later, a son and three daughters
  1. Kim Yon-suk: 1940-1945 (spring); returned to North Korea in 1945; married, infertile
  1. Hwang Geum-Joo (*mentioned earlier)
  1. Park Ok-son: 1941-1945; went to north of North Korea; married, a daughter and a son; returned home in 2001
  1. Lee Ok-son: 1943-1945; returned home in 2000; immediately after marriage, her husband went missing
  1. Moon Bil-gi (*mentioned earlier)
  1. Kang Duk-kyung (*mentioned earlier)

Book BII:

  1. Park You-nian: 1938 (August)-1945; returned home to North Korea in March 1946; cohabitation, a son, adopted a few girls, cohabitation again
  1. Sim Dar-om: 1939-1940, 1940-1945; returned home later; unknown
  1. Gil Won-ok: 1940-1941, 1941-1945; returned home after 1945; married, left home; cohabitation, adopted a child
  1. Moon Ok-chu (*mentioned earlier)
  1. Jang Soo-wol: 1941 (September)-1945 (June); returned home in North Korea before August 1945; single
  1. Kim Bok-dong: 1941-1945; returned home after August 1945; married, infertile, re-married
  1. Kim Gun-ja: 1942 (March)-1945; returned home after August 1945; cohabitation
  1. Kim Sol-an: 1944-1945; returned home after August 1945; married, three sons, divorced, re-married, six abortions
  1. Lee Sang-ok: 1943-fled before 1945 (?); lived in North Korea after 1945; unknown
  1. Kang Il-chul: 1944-1945; lived in Jilin after August 1945; married, a son; re-married, a daughter and two sons; returned home in 2000
  1. Lee Jong-nyeo: 1943 (July)-1945; lived in North Korea after August 1945; unknown
  1. Pei Pong-gi: Married twice before 1944; 1944-1945 (March); lived in Okinawa thereafter; single
  1. Ha Sang-suk: 1944 (May)-1945; lived in China after August 1945; cohabitation, infertile, cohabitation again, married, infertile
  1. Kim Sun-ok: 1943-1945 (?); lived in China after August 1945; returned home in 2005; married, two daughters and a son; re-married, two daughters, adopted a boy

4.3.        Occupations

Almost all self-proclaimed comfort women returned home in the Korean Peninsula after the motherland liberation, excepting a few who stayed under foreign sky.  Some found their families at home while others discovered they were gone.  A few of them took up jobs after landing in Pusan and Inchon to bring home some money.  Many of them changed jobs frequently.  Some of them seriously succeeded in their business by settling down in one place.  One lost her fortune later as she became a debt guarantor for a friend.  Many a woman took up homemaking after finding her partner.  It is true that they got through painful hardships up until 1990s.  I dare say, at the risk of offending some people, the way they lived deserves great praise.  Following is a list of occupations they had.

Trafficking heroin, contraband, and U.S. dollars; selling American commodity goods and insurance policies; peddling clothes, fish, and groceries; running pubs, restaurants, a general store, a boarding house, food stalls, and an inn; working as employees of pubs, restaurants, factories, farms, and cooperative farms; becoming housemaids and live-in housemaids, a singer, a nurse, Kisaeng, a lumberjack, and a prostitute for U.S. troops.

A sidebar comment is nine of the South Koreans were welfare recipients at the time of the investigations.  Two of the six who live in North Korea seem also to be on welfare.

  1. Memories of their life

Provided below are several comments the self-proclaimed comfort women made toward life.  It is regrettable the investigators failed to characterize the women’s personalities.  Relevant descriptions not longer than several lines.  Their thoughts, endorsed and enriched by strong will and long experience, might have provided men and women of all ages with valuable insights. (*Underlined by author)

Kim Tok-jin: “The Japanese should be blamed but I hate much more those Koreans who became their pawn.  I have a lot to say to our government, which must compensate for us.”

Lee Yon-suk: “Not only the Japanese but also the Koreans trampled one another to go on living.  Both are to be blamed.  …  I am not concerned about getting reparations.  For, I may go away tomorrow.”

Hwang Geum-Joo: “My wish is to live an independent life until the end while not being ignored by others and at the same time offering assistance for the people in hardship.”

Lee Tok-nam: “People are supposed to live by accepting their fate.  They will lose happiness of today if they have eyes bigger than one’s stomach.  I no longer entertain a big dream.  When I was young, I had a bad temper.  Because I spent my younger days there (*Southeast Asia), I am reluctant to meet people.  All I want now is to lead a quiet life.”

Kim Te-son: “I think that all the sufferings are attributable to sins of our ancestors.  It is because of the poverty of our country in which we were born.  Even if I was married when I was young, I might have become a comfort woman in one way or another.  It is fate that I was born in those days.”

Park Sun-e: “I made public my past experiences because I thought it would be of service to my country.  Our people must never be enslaved by a foreign country again.”

Yun Do-ri: “I would like to be born again as a woman.  It would be nice for me to study hard under the good care of parents, to get married to a good man, and to bear a child.”

Sim Dar-om: “The Buddha statue on the altar truly evokes a profound sense of wonder.  It gives me everyday wisdom of this and that.  I can live a good life day after day because the Buddha makes me act like a human and gives me an opportunity to get along with other people.”

Gil Won-ok: About her adoption of a boy a stranger gave a birth to, “I am deeply indebted to Lord for my son whom I raised to make him go to the graduate school of a college of theology.”

Kim Sol-an: “My (*second) husband is a college graduate.  He said he would not mind it (*after I had my elder sister disclosed my past to him).  He said what had happened in the past would not matter any longer.  I thought in my heart that one who studied hard are different from others.”

Kang Il-chul: “Those licensed prostitutes went to warfront to earn money.  We were forced to go there.”

Ha Sang-suk: “I worked at a cotton-spinning company in China from 1962 to about ten years ago.  I was mentioned in the newspaper as a model employee.  I worked hard because I did not want the Chinese to consider the Koreans were incapable of doing work.  I was awarded in 1992 for having a happy family.”

A sidebar comment:  Kang Duk-kyung studied painting after she moved in the House of Sharing in 1992.

  1. The Korean Council policies and a personal comment

The personal life of those self-proclaimed comfort women was probably a secondary matter for the Korean Council that had a social cause to criticize Japan.  As mentioned earlier, nine of those women were on welfare when their testimonies were published.  Many researchers would probably lose no time in asserting, “It is their experience of the past that brought about their welfare status of today.  That is why a hard blow of justice must be delivered to the perpetrators.”  Have the council’s campaigns with great public fanfare really improved their circumstances?  Had rationing a portion of the donated money and setting up the House of Sharing sufficiently satisfied those women?

Tsukasa Yajima, the House’s employee in charge of international affairs, blew the whistle to the Kyodo News on May 28, 2020 that the donated money had not properly been used for the women in the house.  He wrote in 2005 an interesting observation about the life of nine women as follows (Book BI, pp. 255-257).  What Yajima narrated is, in no way, a case of improvement of their situations.

“A verbal brawl takes place among them over small things, which is the clash of their egos.  Visitors who come to the House often comment each woman appears like any ordinary grandma.  I would say all of them are fearless and greedy, not to mention making underhanded tricks more than anyone else does.  It is true everyone is two-faced.  But when you encounter the women’s hidden nature, you would find them extremely uncomfortable and musing, at the same time.”

At the beginning, the Korean Council campaigns were supposed to consist of the two pillars below, which operated as the two wheels of a cart.

(1) To pursue actions to demand Japan to take responsibilities for the comfort women

(2) To provide psychological and material support for those women

The Korean Council encouraged those women to take part in the Wednesday demonstrations in the nation, took them overseas to attend unveiling ceremonies of comfort women cenotaphs and statues, and arranged them to take the congressional and assembly witness stands.  It is true that the council, by making public the women’s past, could appeal human rights violations not only to Japan but also to the world.  The pillar (1) has been partially successful.

Concerning the comfort women issue itself, Professor Chin Sung-Chung of the Seoul University said as follows in an opinion piece titled ‘In Seeking Concrete Solutions for the Victims’ (Book BII, pp. 381).

“It is the social conditions of war, racial prejudice, and patriarchy that brought forth the comfort women system.  Eliminating them will be the fundamental solution to the problem.”

The three factors Professor Chin mentioned—metaphysical in some way—are concisely reviewed: (a) War breaks out of conflicts of interest as history has seen.  Therefore, it is not necessarily rightful to blame Japan alone from a geopolitical point of view.  (b) The racial prejudice Professor Chin mentioned is a criticism against Japan that colonized the Korean Peninsula and treated the Koreans as the second class citizens for the Japanese.  The Western Powers exploited local people wherever they were in the modern age of colonial imperialism.  This fact would be no excuse for Japan.  (c) Patriarchy continued in every corner of the world into modern times.  It exerted profound influence especially over the Koreans as a legacy of the Yi Dynasty rule for five centuries.  It is not quite reasonable to blame Japan for patriarchy.  It goes without saying that the comfort women system did not originate in the peninsula; the system must be understood as having evolved around prostitution in Japan from the 17th century.

Having said that, I believe what Professor Chin meant above should be interpreted as a future agendum for the Korean Council.  Accordingly, his suggestion should not be identified with the pillar (1).

What about the pillar (2)?  As far as their well-being is concerned, it is not necessarily true that the Korean Council has satisfied those women’s psychological and material needs while they were in the retirement period.  It has controlled their behaviors and decision-making.  It has divided their personality by elevating them to a group icon.  In other words, those women have become a tool of the intellectuals without being provided any opportunity to pride themselves with their own insights into life.

Both a sincere person and an insincere person are remembered in history.  It is the former not the latter the public will appraise.  The Korean Council with a wrong judgement has left a major stain that cannot be wiped off.  It is anyone’s guess how this incident regarding accounting irregularities comes to an end.  The Korean Council must be back to square one and earnestly and seriously review the pillar (2) so that it can kickstart what needs to be done for those women.  Time is running short.

“The whole truth” sounds nice, however, “Covering the truth” is a shameful act.

A last note: Those who committed human rights violations must be held accountable. It is Japan’s expansion of the theater of operations that prompted the Korean women to take on prostitution business in warfront after the introduction of the licensed prostitution system by Japan to the Korean Peninsula in 1916. The system—that imposed a variety of duties upon comfort station managers to protect the comfort women’s right—was, none the less, something that tacitly gave an approval to human trade. It follows that the Japanese government was not faultless at the time. It is not appropriate, nevertheless, to criticize the system from today’s point of view. As for the “subhuman treatments” the self-proclaimed comfort women narrated, it is reasonable to blame greedy comfort station/brothel managers for business malpractices.

***************************************

Note 1: “Discourses on Terminologies Related to the Comfort Women (Licensed Prostitutes)” of April 2019, “My Thoughts on Film Shusenjo” of March 2010, “Korean Puzzle” of April 2020, “Development of the Seigiren Clatter” of June 2020, and “Outcry of Lee Yong-soo, the Self-Proclaimed Comfort Woman” of June 2020.

Note 2: Miyamoto, Archie. (2017). Wartime Military Records on Comfort Women. 2d Edition. Amazon Fulfillment, pp. 37-39

国連クマラスワミ報告書、マックドゥーガル報告書、全部嘘なんです!

youtube 反日銅像撤去デモシリーズPart18 (2020年6月23日)
「 国史教科書研究所  金柄憲所長の講座3 嘘の根本を探る!」
から、日本語訳の文字起こしをご紹介します。

「大韓民国は嘘の天国だ
嘘の天国がアメリカの議会、ヨーロッパの議会
国連の人権委員会まで犯した
物凄い実力の嘘の専門家達の集団だ」

韓国の国史教科書研究所の金柄憲所長の言葉です。

ここまで言いきって下さいました。
是非ご覧ください。

<動画 日本語訳 文字起こし>

皆さん、こんにちは。
チャンネルFujichanの宮本です。

今回のテーマは金柄憲所長の「最大限の嘘を暴く!」です。
(UNクマラスワミ報告書)

0:11~
今回は、さらに真実糾明の本質に迫ります。
これで問題の核心がはっきりと見えてきます。
今この瞬間と未来のため真実を見極める眼と心の
アンテナを高めていきましょう
-金柄憲所長登場-
0:34
クマラスワミ報告書が今の大韓民国の慰安婦問題の
核爆発だったんですよ。本当に!
そこから(クマラスワミ報告書)
すべてのことが我が国の慰安婦問題の歪曲とか
慰安婦問題を政治的利用をする根拠になったんですよ。これが!!
すべての根拠になってしまって、全ての問題をここに押し付けて、
UNが認めたんだ!
これで解決してしまうんです。
(それ以上何も言わなくてもいい。)
でも、これは全部嘘なんです!!
クマラスワミUN人権報告書、
そしてマクドゥーガル報告書

全部、嘘なんです!!

このようなクマラスワミの報告書
を理解するためには、
基本的に
その当時の慰安婦がどんな不義の人を通して
どんな過程を経てどうやってその場に行ったのか?

そこに行ったのは行ったんですが、
果たして彼女たちは皆
日本軍の慰安婦だったのか?
このようなことを
基本的に知らなければなりません。

今日は、とても初歩的なお話をします。
この慰安婦に対してしっかりと認識しないと
いけないんですが、
慰安婦は、、、
ここに書いてある字を
このまま消すとどうなりますか?

これですね。
これなんですか?

女性です。
女性。

男性はこう書きますね。

男がいますが、
私たちが今お話しをしようとするのは
女性ですね。

その当時、「国の主権喪失期」。
私は日帝強占期という言葉を使いません。
国権喪失期、

私たちの「国」という主権を喪失した時期、
1910年から1948年までですね。

1945年の解放以後は、国の主権が奪われたというより、
アメリカによって国の主権を喪失したのではなく、
日本統治(日帝)からの喪失がずーっと続いたんです。

よって1948年8月15日私たちが光復するまでは
私たちが国の主権が無く、私たちが外交権を
行使することができなく、

その当時の私たちの国は、人が生きていくということには
全てお金が関係してきますね。

その当時のこの国の経済活動は、
男たちは主にほとんど皆が労働市場に行くことでした。

何故?
学んだものが何もなかったし、
その次に
就職する場所がないんですね。

ところで女性たちは?
それなりに新女性も沢山いました。
小説を書いたり、
その当時の新聞、1920年から1930年を見たら、

私は小説家になりたい、小説を書いたけれど
これをどのように発表したらいいのか?

私は飛行機の操縦士になりたい。
そうしたらいのか?

このような悩み相談するのも新聞に沢山でてきます。

そして声楽家になりたい、教育者になりたい。
特に新聞の小説「常緑樹」
に出てくる蔡永信のような人も沢山
登場したんですね。

それは、極一部です。そのほかは田舎で農業をしたり、
重労働をしたり、

しかしそうしながらも、
解決することができないものがありました。
それが何ですか、即ち貧困ですね。

貧困

この貧しさのゆえに、お腹がすくから
人々は自分たちが願わない

意思とは関係ないところに
追い込まれてしまうんです。
今も同様です。

仕事に就けなく、貧しさで苦労すると
自分の意志とは関係なく追い込まれてしまうんです。

特に人権の死角地帯
奈落の世界に落ちてしまいます。

そうやってこの女性たちが
主に体を売る女性「娼」。
この道に落ちてしまう人たちは相当な数になりますが、

どうやってこの道に落ちてしまうのか?

結局はまず親が娘を売るんですね。

親が!
何故?
貧しさから抜け出るために。

親が売った場合もあったし、その次に義理の弟が
義理の姉を売る場合もあったし。
父親が娘を売ったこともあったし
母親が娘を売ったこともあったし、

新聞を見たら色々なことが出てきます。
はなはだしくは、嫁に行った娘を家に返って来いと言って
売り飛ばしてしまったケースもあったし、

その次に新婚旅行に行って帰ったら
お金が無くなってしまい
自分の妻を売った場合もあった、

そのような記事もあったんですね。

そのような場合が
非常によくないところに落ちてしまうですね。

その次に、「私についてきたらよいところに
就職出来て、裕福に暮らせいい服も着れるし
一緒に行こう!」

そうすると、田舎では何も知らないんです。
勉強もしていないし、この広い世間のことどうなっているか
何も知らないんです。

いい暮らしが出来て、綺麗な服が着れるから
皆が全部ついて行っちゃたんです。

その人がどんな人なのかも知らないんです。
でもついて行ってしまったんです。

そうやって、就職詐欺でついて行ってしまったんです。

このように2つの部類、親が売ったり就職詐欺で騙されたり
して、この方向に落ちて行ってしまうんです。

ここに落ちてしまって、では慰安婦とは何か?

ここからもう一度どこに行くのか?

国外に行くか、国内で活動する場合があります。

特にこちら(国外)は1930年以後、
日中戦争以後、

太平戦争の時、主に外国に行ったんです。
外国に行ったケースが大部分日本軍慰安婦ですが

そうだったら、日本軍慰安婦はどのような形で?
出て行けば全部が日本軍慰安婦だったのか?

このようにはっきりと見てみましょう。

これは駐屯地です。

駐屯地慰安所で、だから駐屯地慰安所と言うのは
日本軍が戦争をしながら山岳地帯
、民間人がほとんどいない地帯。

そのようなところに慰安所があるんですね。

だったら、駐屯地の慰安所は遠い僻地。
今でも軍の前線では民間人のいない場所がありますね。

ソウル市の周辺では首都警備司令部、首都防衛司令部
そのようなものがありますね。
そして色々な舞台がありますね。

民間人と近いところにある場合もあるんですね。

そして民間人たちがだんだん沢山いる地域があるんですね。

そうすると一番下に行けば
軍の駐屯地が何も無くただそれこそ遊郭

遊郭と言うのはただ慰楽施設です。
お酒をついだり、
結局ここでどんなことが起きたかと言うと、

売春行為が起きるんですね。
ここは事実上民間地域です。

なので上に行けば行くほど軍の管理が
だんだん厳格になっていくんです。

先ほど、外に出て行った慰安婦たちは
朝鮮人女性も多かったんですが
日本人女性もとても
多かったんです。

日本人女性が一番多かったんです。
朝鮮人女性も多く、その次に中国人
周辺の色々な人達。

その次にその現地の女性も
売春をする人がいるんです。

ここで駐屯地の慰安所では

厳格に管理がされていたんです。
厳格に!!なぜ?

この慰安所設立の目的自体が現地の女性に対する
強姦を防止し、

その次に軍人たちの性欲を解消するために
自然に軍の士気の害になる要素の
性病の防止が出来るんです。

この二つを徹底的に管理したんです。

軍人たちの軍紀が厳格に
管理されなければならないんですね。

なのでここ駐屯地、完全な駐屯地の慰安所では
慰安婦たちに対する管理も厳格だったし、
軍人たちに対する管理も厳格だったんです。

慰安所を運営する抱え主、
慰安所の主人に対する管理も厳格だったんです。

なので事実上こちらは周期的に
性病検査をしたんですね。

そして周期的に慰安所の主人たちは
慰安所を許可した軍部隊に毎日売り上げを
報告したんです。

そしてうちの慰安所には慰安婦が何人いた。
何人が病気になった。そして妊娠した人がいた。

これを全部報告するんです。

そしてここでは性病予防のために一般的に言われるサック
コンドームを必ず準備し使用するようになっていたんです。

もし軍人たちが慰安婦に対して暴力をふるって憲兵に
申告したら、憲兵は軍人を処罰したんです。

ところで、ここからだんだん下がってくるほど、
軍人たちの管理から離れていくんです。

軍人の管理から離れて行けばここでどんなことが
起きたでしょうか?

抱え主による人権侵害が生じてくるんです。

抱え主による!

この人たちは無所不在です。
女性たちは抱え主の何ですか?
自分達が営業の資産だと思っている慰安婦を
お金を買ったんです。

何ですか?投資をしたんです。
投資をしたので自分の利益を出さないといけないんです。

女性たちは人間ではなく商品だったんです。
(注、抱え主にとって)

なので女性たちがもし性病にかかって
仕事ができない場合はとてつもない虐待をしたんです。

そして言うことを聞かなかったら虐待し、
問題をおこしたら虐待し、

場合によっては同じ年の友達同士で
話もできないようにしました。

そして厳しく統制して逃げられないようにしました。

そうだったら、このクマラスワミ報告書に出てくる話は
慰安婦の証言集を見れば、どういう証言があるかというと

針を板の上に刺して女性をその上に
引きずったという話もあります。

もし駐屯地でこのような事件が起きたら
これは大変なことになるんですよ。

そして性病にかかった女性は
そのまま殺してしまうということなんです。

一日に70名殺したというのです。

そうだったら、果たしてこれが
駐屯地の慰安所で起きた事件なのでしょうか!?

そしてまたそのような証拠があるのか?
全く全然証拠がないんです!?

このクマラスワミ報告書にも
はきりと話しました。何の証拠もありません。
慰安婦の証言しかありません。

果たして、50年60年過ぎた証言を信じることが
できますか?

そしてその当時に残した自分たちの日記でもなく
日記でもありさえすれば信頼できますが

何もありません。

ではこれは誰がしたんですか?挺対協にいる人達が
対話して質問して返答を受けたんです。

それも再整理をしたんです。
信頼できますか?
出来ませんね。これ!

これは加工されたものです。

しかしながら、ここに出てくる証言は
特にファン・クムジュ(黄 錦周)という人、先ほどお話しましたが
606号の注射を受けたと!

606号注射が何ですか?
梅毒の治療剤じゃないですか?

それこそ画期的な梅毒の治療剤なのですが
ところがクマラスワミ証言集では
ファン・クムジュ(黄 錦周)氏が何と言ったかと
606号注射は避妊薬として出てきます。

606号注射をしたら妊娠できない!
妊娠した胎児をなくすことができると
このように書いてあるんですよ。

これなんですよ!

梅毒と妊娠は全く関係がないですね!
もちろん関係はあります。
梅毒にかかったら妊娠できなくなります。

でも606号注射が避妊の薬ではありません。
606号の注射が妊娠中絶の薬でもありません。

それなのに国連の人権報告書に
そう書いてあるんです。

なので、ここで特に何の話をするかと言うと
日本軍慰安所で日本軍たちは
女性たちの人権を蹂躙する方法として性病検査をして
厳格に管理したと!?

女性たちの人権を蹂躙したと書いてあるんです!
ここに!!

これ、何ですか?

これ一体どうして!?私は国連でこんな報告書が採択されて
これで日本に責任を問う!?

全く理解できません。
私は日本の側に立つという気持ちではありません。

私は実際、高校を卒業して
柳周鉉の大河小説「朝鮮総督府」を5冊読んで

太平洋戦争731部隊5冊を読んで
その当時私は日本は○○奴だと思ったんです。

日本は想定するものじゃないとそのように考えたんです。

その後、私は歴史専門家だし、漢文学専門なので
一つ一つじっくり調べたら、
これは完全に全部嘘だったんです。

そしてこのクマラスワミ報告書がそれこそ
ただ一つ性奴隷制
日本軍慰安婦は性奴隷だ。これを前提として

そこに全てのことを無理やり合わせたんです。
私はこう考えます。

このクマラスワミと言う人は本当に悪い人だ!

ここにこの資料を提供した韓国の
挺対協のユン・ジョンオク(尹貞玉)氏と
シン・ヘス(申蕙秀)氏、イヒョジェ氏は
この人たちは本当に天罰を受けなければなりません。

ところがこういう人たちが大韓民国で
どういう待遇を受けているかご存じですか?

大韓民国の女性賞、女性に関した賞は
皆全部持っていったことでしょう。

これが今の大韓民国の現実です。

これを見ながらそれこそ
大韓民国は嘘の天国だ

嘘の天国がアメリカの議会、ヨーロッパの議会
国連の人権委員会まで犯した

物凄い実力の嘘の専門家達の集団だ

このように考えます。

これを私たちは必ず
正していかなければなりません。

(そうです。拍手)
15:25

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<参考動画>
youtube   채널fujichan
韓国日本大使館前 反日銅像撤去デモ  動画一覧
https://www.youtube.com/channel/UC0HuFE2BU3LsruQCDUUcSlg/videos