米国から一時帰国したなでしこ仲間からの報告です。
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日本滞在中、長い間の願いであった土浦の全国花火競技会を見ることができました。
毎年10月第1土曜日(荒天時は延期)に開催します。秋季10月の花火大会は2011年まで日本唯一でした。今年(2012)より、お台場東京ミュージック花火大会が10月第1日曜日に創設されました。この日、土浦の人口10万に対して、この日70万の人が来ます。ただ今国道6号線(6国といいます。)と常磐線が福島県境で止められているため、来場者は大変な思いで来るでしょう。
由来を口頭で聞いただけでしたが、ネットで調べましたら以下の通りです。
ウィキペディアより 土浦全国花火競技大会
歴史 『1925年(大正14年)、新治郡土浦町(現:土浦市文京町)の神龍寺の24代住職であった秋元梅峯は、霞ヶ浦海軍航空隊と親交が深く、私財を投じて航空戦死者を慰める趣旨の花火会を霞ヶ浦湖畔の埋立地において行ったことが始まりである。
第二次世界大戦による中断があり1946年に再開したが、住職の財産が無くなると共に中止が検討された。その後は日本煙火工業会(現在の日本煙火協会)の会長を務めた北島義一が出品者確保や入賞者に贈る賞の設立など大会の運営に尽力し、日本三大花火の1つに数えられるまでとなった。1959年には初めて「速射連発の部」を設け、それまで仕掛け花火の一部として見なされていた速射連発花火が独立した分野として扱われるきっかけを作った。
1972年からは現在の桜川にかかる学園大橋付近の開催となった。1988年には昭和天皇の病状悪化に伴い「自粛」した。』
この日、午後になってどしゃ降りの雨になり、観客は下敷き、毛布、お弁当、飲み物等山のような荷物を下げて川原に向かっていると、嘘のように東に2/3円周の虹が突然架かりました。一緒に雨宿りしていた老夫婦に”うわー、見て!すごい虹!”と感激のあまり叫んでしまったら、”俺達虹見に来たんじゃねえ、花火見に来たのよ。”と。川原にのぼるまでぐちゃぐちゃの桜川土手道をすべりながら歩きました。何十万という人がこの状態で集まってくるというのに、互いをいたわりながら誰も押さず、誰もカットせず、一桟敷2畳のスペースをお互いに一センチも出ず、静かに鑑賞する風景は花火の美しさよりも日本人の変わらぬ心をたっぷりと鑑賞できました。終了後の雑踏も、はるかに並んでちっとも動かない車の列も、一度も警笛を鳴らした車を見ませんでした。考えられない程静かな整然とした歩み(つるつるした土手のぬかるみの中ですよ。)は子供たちも含めてです。このような国は世界中どこを探してもありません。
そして、この花火の由来が分かった時、日本人はそのまんまで、ただの一日本人としてすごいんだと思いました。一人の住職が私財を投げ打って航空戦死者を慰める意味で始めたものです。今、日本一の花火大会になっています。予科練の若者達も見ているかなと思う時、そして、川原の70万の人々が一斉に感嘆の声を挙げた時、桜川の川面で共に楽しんでいるのは私達、今生きている日本人ばかりではない日本人たちもいると感じました。
翌日靖国に行きました。とても静かな日曜日。秋季例大際の2週前でした。
花火は、期待した数倍の美しさで、今まで一生涯見た花火を全部集めてもこの比ではありません。新潟にも大会があるそうで、たくさんの新潟県人も来るそうです。私達の後ろの桟敷の人が、一つの出し物花火が終わった後、”あーあ、この花火で小樽の市の予算は全部使い果たした。”と。小樽から来たんだろうね。私はアトランタからと言いそうになりました。いつもネットで見ている日本の政治情報に怒りを感じている中、日本の群集に静かに感動しました。