日本キリスト教婦人矯風会(高橋喜久江会長)、韓国挺対協(尹貞玉代表)、VAWW-NET(元・朝日新聞記者の松井やより代表)、そして福島瑞穂弁護士の繋がりについて舘(たち)雅子先生が証言しています。必見です⇒http://www.youtube.com/watch?v=gdNtG_H_Fvw
理解出来ないので教えてください。 1.慰安婦像を撤去したいのであれば、市議を味方にする必要があるのに何故攻撃(訴訟)しているんですか? 2.河野談話がある限り訴訟は勝てませんが、アメリカを攻撃する団体に政府が呼応すると思う理由は何ですか? 3.弁護士が降りるなんてことは、訴訟準備不足以外の何者でもありませんが、訴訟準備も万全に行わず、人様のお金を6億も消費しようという行動は、どこに責任感があるのですか?外部圧力うんぬんは、当然事前に予測していて当たり前の話です。 4.本当に慰安婦像を撤去したい人にとっては、このような雑(基本的な部分で準備不足・味方にするべきのアメリカを攻撃している)で派手な動きは迷惑だと思いますが、どう思われますか? いろいろ考えましたが、以上が理解出来ないので教えてください。 お手数をおかけしますがよろしくお願い申し上げます。
慰安婦性奴隷が、捏造である事を解っていて、その噓を 世界にばらまこうとする、中国、韓国、北朝鮮とメデア。 徹底的に洗脳されて、噓を信じ込み、聞く耳を持たない欧米人に対して、 どのような方法で、真実を伝えていけるか、その方法について 貴方のご意見を具体的に 教えてください。
「Sex Slave]の定義は、「継続的に性行為を強要される状態にある人」です。ですから、親に売られたとか、騙されて慰安婦にされた人たちは「Sex Slave]です。
「性奴隷」の定義はどのようですか?
7771さんへ 日本は魂の国より
GAHTに、3か月分まとめて寄付しました。日本政府が動かない現状では、なでしこアクションとGAHTだけが頼りです。
売春慰安婦「paid comfort prostitute」 に呼びかたを変えるべき。日韓台軍人は1週間分の給料を売春慰安婦に払った。南アジアでは少しは犯罪者が拉致とかあっただろうが、個人犯罪で日本が認めた売春慰安婦じゃない。
戦後70年の現代を生きる ~ 負の70年を未来の糧にする思考法 ~ □起 国史を通観し現在に至る ○戦後70年を歴史の断絶と観る 国史上の三大改革としてあげられる出来事は、大化の改新・建武の中興・明治維新であろう。これらは「歴史の連続」のなかで起こってきたことで、生かされ生きてきた日本人本来の精神を取り戻そうと、捨身の行ないに終始された人々のおかげである。ひとたび悪が現れても必ず正そうとする先達が登場した。蘇我馬子に対する物部守屋、蘇我入鹿に対する藤原鎌足、弓削道鏡に対する和気清麻呂、藤原時平に対する菅原道真、足利高氏に対する楠木正成、その楠木公に続こうと行動を起こした幕末の志士たち‥。 前の二つは現代に生きる我々からはあまりにも大きな歳月の経過があり、想像するのが困難な時代であるが、近代に成し遂げられた明治維新は想像できる余地はあり、その余慶が現在にもたらされている。幕末の志士たちを想起してみる。欧米列強の植民地になることを回避するために奔走し、先駆けられた。滅私奉公の時代、公に殉ずる心掛けの時代、大和魂の培われた時代は、曲がりなりにも戦前までは続いた。 ところが敗戦後、占領下におかれて自主独立が奪われた。今から思えばたった7年間のことである。しかし、そこで起こったことは「歴史の断絶」であった。さらには、伝統の断絶、精神の断絶、文化の断絶‥。その余殃が戦後70年の現代に至るも影を落としている。今どうしてよいかわからない。今後進むべき方向がわからない。己の存在理由がわからない。(自殺者が多いのもそのためか。) ただ、何かを変えていかねばならないという思いは国民にある。そのひとつの現れが平成13年の小泉内閣発足時の支持率にあった。自民党をぶっ壊す、聖域無き構造改革の旗印に皆が期待したからである。最も印象深いのは、自衛隊イラク派遣だった。筆者の弟は防衛省キャリア官僚として、サマーワへ赴いた。人道支援とはいえ迫撃砲が飛んでくるなか、「行く身になってみろよ」を実感した。
○辛くも残った皇統 歴史の断絶のなかで、幸いにして辛うじて残ったものが一つだけある。それは国体護持とまでは言い難いが、「天皇制」(*)である。源頼朝といえども、徳川将軍といえども、朝廷からの任命を受けた臣下であった。幕府体制が揺らぎ混乱を招いたときに、我国は幸いにして天皇(帝、みかど)がおわしました。帝に対する意識の強弱はあったであろうが、国の危機とみるや、志ある先達は帝さまに神習おうとしたのであった。 戦後70年はまさに現代である。戦前までを近代とすれば、近代に生きたことのある人々の数は、わずかになった。ここに大きな危機感が生じる。現代は「私栄を企図して公儀を破る」時代となり下がった。公私の区別ができないのは、学校教育から修身がなくなったからであろう。それでも昭和の30~40年くらいまでなら、まだ家庭教育のなかで庭の教えが多少は効いていた。 (*) この表現はコミンテルンの文書に出てきたもので、明らかに意図的な造語である。現在の日本では、まだ一部で公然と用いられている。その前提で、別の言い方をすれば、「制度としての皇位、あるいは御位」とでも言えるか。
諸悪の根源は占領下の7年である。この7年の間に始まったものは、すべてその成り立ちが悪い。成り立ちの悪いものがいい結果をもたらす筈がない。その最たるものが現行の憲法である。護憲派は一字一句変えるべきではないという立場らしい。昭和27年4月28日、主権回復した日、理屈からいえば占領下において決まったものは全て破棄すべきであった。そして、戦前からのものを引き継いで新たなる出発(日本人の手による改革)をすべきであった。 だが、吉田茂(首相在任期間:昭和21年5月22日~昭和22年5月24日、および昭和23年10月15日~昭和29年12月10日)はしなかった。再軍備も拒否した。結果、占領下の7年が戦後の70年を縛り続けることになった。現行憲法を維持する限りは、法的にも祖国は未だに占領下におかれているのと同じである。自主憲法の実現はほど遠く、せめて改憲しようという動きが芽生えている程度だ。吉田の怠慢によるツケはあまりにも大きい。(一方で、彼は廃止された神宮皇學館大学の復興には尽力し、新制皇學館大学の初代総長に就任している。)
○既往の二つの談話を成立させた3つの弱点を有する日本国 「戦後70年談話」が村山・河野談話の継承を前提とするならば、何らかの「お詫び」のニュアンスが入り、敵を利することになる。敢えて「敵」としたのだが、昔蒋介石が口述した『敵か友か』を想起したからである。外交はきれいごとではなく、西郷隆盛や陸奥宗光のように「命を懸けて」やるべきものだから、内心にしっかり秘めたものがなければならぬ。つまり、判断の拠り所をピシッと決めて事に当たらねば失敗する。 戦後の外交は、その多くは従事した者たちによる保身と譲歩の塊ではなかったか。かつて、下関砲撃により列強から報復を受けた長州藩から講和談判に当たった高杉晋作は『古事記』を語ったという。70年談話は日本の立場を語らねば意味がないどころか、逆効果となる。それは、自前の歴史認識に基づかない、日本降伏の条件であったポツダム宣言の対日認識を前提にしているからだ。 「安全・エネルギー・食糧」という社会成立の三条件を的にすると、思考がしやすくなる。戦後保守勢力の安易さは、危機意識の欠如であり、気の緩みにつながる。例えば、海外からの食糧輸入が止められたら‥という発想がない。(その点では、台湾のほうが自主独立の国である。) 安全保障の問題は、自ら安全な場所・立場にいる者(最前線にいない者)には、平和と叫ぶだけでは安全は実現されないことがわからない。現に尖閣や沖縄が危ないではないか。日中中間線上に設置されたガス田は直ちに軍事基地となり得る。半端な経済制裁を行なっても、拉致問題は未だに解決の糸口すら見えてこないし、ミサイル発射の脅威が常にある。 それでも、祖国の平和が保たれていると本気で思っているのか。相手は「ズボンを履かなくても原爆を」と核実験を繰り返してきた。五星紅旗の赤地は革命の色、血の色である。(ちなみに日章旗の赤は太陽、白地は光を表す。)幕末維新の先達は、列強の植民地にされないようにと命を削ったものだが、現代人は敵からの侵略を受けてからでないと目が覚めないらしい。それではもう遅い。だから、現政権が少しでも手を打っておこうと模索していることには、協力的でなければならぬ。 フィリピンとの合同軍事演習、大いに結構ではないか。きな臭いなどと言う者は、批判のための批判で飯を食らう唾棄すべき手合いである。日清・日露の戦いは何故起こったのか。100%朝鮮である。地政学的にも絶対国防圏であった。そのことをよく知っていた先達は、国家百年の大計のために多大な犠牲を払っても守り通した。当時の人々もよく応えて防人となられた。 今、そのような国難に接して立ち上がる国民がどれだけいるのか。偏差値エリートだけが出世して要職につかれるようなしくみは変えなければならぬ。道具の歴史は進化していくであろうが、精神の歴史は衰退しているのが現実である。英会話に堪能であることよりも、「人物の陶冶を優先すべき」という安岡正篤(陽明学者・思想家、明治31年~昭和58年)の考えに賛同する。
□承 日本が悪いから負けたのか ○日本は侵略者として歴史の法廷に立っているかのようだが 戦後生まれの世代は、学校で「戦前の日本は悪いことをして戦争に敗れた」と教えられた。そして、日本が一方的に悪かった、負けてよかったのだ、平和な日本になったのだと思い込まされた。多くの知識人が「日本は侵略という罪を犯したのだ」と思い込んでいる。ひどい連中ともなると「天皇制があったが為に戦争した」と嘯いている。 それなら「天皇制のない国は戦争に突入しなかった」ことになるが、事実は天皇制なき国々のほうが歴史上数え切れないほどの戦争をしてきたではないか。そのために世界の各地で国家興亡が繰り返され、無数の人々が家を焼かれ国を追われ殺されてきた。地球上で日本だけが国家興亡なく二千数百年の歴史を刻んできた。(ちなみに「中国三千年」とは真っ赤な嘘である。現在の中国は高々六十数年の歴史しかない。易姓革命が繰り返され、焚書坑儒の如く前王朝の歴史が抹殺され、国家興亡の連続であった支那大陸であるから、「支那の歴史三千年」というのならば許容できるが。)
○戦争はしたが、日本だけが侵略者とする偏見を排す 戦争は絶対にいけないものだ―この思いは、戦時下に生を享けた人々には痛切なものがあるし、戦後生まれの者達にとっても悲惨な映像を見るにつけ「二度と戦争してはならない」と思わぬ者はないだろう。そのことは人としての道徳観念もさることながら、多分に無差別爆撃や原爆投下後の惨状を見てのイメージにあり、体験談から聞く悲惨な思い出話によるところも大きい。銃後の人々には直接戦禍を被った体験があり、語り部となった人もいる。 日本軍は果敢に戦ったが、決して侵略が目的ではなかった。従軍した日本兵は優しい人が多かった。例えば、現地の支那人を匪賊から守り、ひもじい子供に飯盒の飯を分け与えるなど保護した。兵士は、いつ襲ってくるかわからぬ匪賊の襲撃に備えて就寝時もゲートルを外すことはなかった。日本軍が駐屯する村の治安は良かった。しかし、戦争体験自体はいい思い出ではないために、戦地に赴いた人は多くを語っていない。 そこに付け込んだのが中国・韓国で、自らの残虐性を日本兵の残虐性に摩り替えて世界に喧伝している。彼らには道義的感性はなく、ありもしない南京大虐殺・従軍慰安婦を捏造して日本から賠償金等を揺すり取る作戦を実行し続けている。しかも、永遠の政治カードとするつもりである。 日本政府による強制連行もされていない、従軍もしていない、単なる商売でやっていただけなのに、日本軍の性奴隷にされたという慰安婦の問題に対して、このまま日本がおとなしく黙っていたら、本当にあったことになってしまう。まさに歴史戦・宣伝戦である。もっともっと史実に基づく理論武装をしなければならない。歴史は真実の記録でなければ意味がない。歴史の真実を示して、確たる証拠に基づかない相手の言いがかりを一蹴し、そのことを世界にアピールしておかねば永遠の外交的敗北となり、子孫への禍根を残す。
○戦時における残虐な行為はどっちだ! 戦争現場では戦闘員同士の殺し合いが行なわれる。だが、戦時国際法(欧州人がつくった戦いのルール)では、「非戦闘員を攻撃すること」は禁じられている。日本はそれを守った。重慶爆撃に際しては、予め非戦闘員への避難勧告をしてから攻撃を実施した。真珠湾攻撃では主力艦船を狙い、石油タンク・ドックは攻撃しなかった。一般市民が巻き添えをくわないように配慮したのであろう。 それに対してアメリカは、勝敗の決着は実質上ついていたにもかかわらず、日本の各都市に対して無差別爆撃を敢行し、広島・長崎に原爆を投下した。ソ連はヤルタ秘密協定(日本は当然知らされていない)を拠り所にして、終戦一週間前に突如中立条約を破って参戦し、無抵抗の非戦闘員を惨殺した。捕虜は戦い終われば同時に各本国に送還するという国際法に背き、肉体の続く限り酷使して殺した。われわれ日本民族は、これらのことを肝に銘じておくべきである。 信じられない残虐さで日本人が大量虐殺された通州事件、通化事件‥。リンドバーグの『戦中日記』には、日本兵捕虜・遺体に対してアメリカ兵がしたおよそ信じられないようなことが記録されている。ラス・カサス著『インディアスの破壊についての簡潔な報告』にあるキリスト教徒の残虐性にも匹敵するものであった。
○戦争の勝敗が善悪の区別にすり替えられた 極東軍事裁判、東京裁判とも言われるアメリカをはじめとする戦勝国が敗戦国日本を国際戦争裁判の俎上に乗せたとき、印度のパル判事が東条英機以下全員を無罪と主張した。敗者を戦争犯罪者として裁きの庭に立たしめる法はないからである。近代刑法における原則である「事後法の禁止」に違反するし、敗者を処刑する理由があるならば勝者側にも処刑されるべき者もあったはずだ。欧米こそが憎むべきアジア侵略の張本人であるのに、日本が侵略戦争を行なったということを歴史に留めることによって自己のアジア侵略の正当性を誇示し、同時に日本の過去十五年間一切を罪悪であると烙印することが目的であった。 すなわち、戦争の勝敗が善悪の区別にすりかえられてしまった。日本は悪いから負けたのだと。戦争は正義が必ず勝つのか。否、正しい側が勝つとは限らないのが歴史の真実である。物部守屋・捕鳥部萬、楠木正成・新田義貞などをみても明らかなように、正義が勝つとは限らない。(だが、戦いに敗れ滅びても偉人として後世の者が称え、尊敬の念をもっている。)世界の歴史(戦争史)をみても、同様に戦勝者が正しいとは限らず、武力で勝った側が負けた側の領土を奪ったというだけの話である。善悪とは無関係であった。
○座して滅ぶよりも戦って亡ぶ道を選んだのだが 絶対にしてはならぬ戦争をなぜしたのか。大東亜戦争は日本が侵略を目的として起こしたのか、大和民族として已むに已まれぬ戦いであったのか、英米支蘇の悪辣さをもっと研究しておかねばなるまい。日本が立ち上がる前に、既にアジアの大半が欧米に侵略されていたのだ。その魔の手が日本にも及んだ。当時の日本人は、座して滅ぶよりも戦って亡ぶ道を選んだ。なぜ戦わねばならなかったかを研究しておく必要もある。鬼畜米英の前には無力であってはならない、不法侵略に対する自衛力はなくてはならない、無力から奴隷となるのを潔しとしなかったのが、戦前の日本人であった。 ところが、祖先の尊い血潮で守った祖国を戦後になって自己の利益のために売国奴と成り下がった者達がいた。彼らが父母となってその子孫に伝えていくと、本当に恐ろしい国家の危機が訪れる。それが戦後70年の今のありようである。 「戦争反対」を唱えながら国会議事堂前でデモ行進しても、平和には寄与しない。むしろ、対日戦争を誘発する条件づくりをしている。 国の守りを固めて初めて、国の安泰が図られるのである。選良たちは、政治屋ではなく真の政治家として立ち直るべきである。自己の名誉利益のために心を揺るがすことなく、上(かみ)御一人より下(しも)万民に至るまでその期待に応えて粉骨砕身し、国家の安泰・国民の和楽に尽くしてもらわねば困る。このままで行くと、「日本は悪いから負けた」という臆説が益々強化されてしまう。
□転 先達の力を借りるべき秋(とき) ○「幽顕一体」を信じられるか否かが大勢を決する 以下の文章は「幽顕一体」を信ずることが前提である。人は身体だけでは生きられず、火の気であるタマシヒが宿って初めて血が通い、体温が保たれて活動できる存在である。人はもともと「火留」と書かれた所以である。身体とタマシヒは、酒瓶と中味の酒に似た関係にあり、身体はタマシヒの入れ物の如く、身体が健全でなければタマシヒは納まることができない。だが、酒は決して酒瓶ではなく、酒瓶に納まる中味である。したがって、人の本体は身体ではなく、タマシヒの方であると言えよう。 この世(顕)は、正邪・善悪・清濁が入り乱れた世界である。だから、正しいからその方向へと進むとは限らない。よくない方向へ行ってしまうこともあるから、気をつけて進まねばならない。人はそれぞれこの世での役目を終えれば、あの世(幽)へと旅立つ。身体は滅びてしまうが、霊魂・霊魄は目に見えないが残る。同時に、この世で培った知識・技能・性格・心情なども残る。 したがって、後に続く者にも鬼籍に入られた先人との交流が可能である。優しかった人は純粋に優しい気線を残すし、意地悪だった人は死してなおいっそう意地悪である。先人が親なら子供のことが気になるだろうし、企業の創業者ならその行く末を見守るのは、自明の理であろう。恰も運動会を見に来た親が、大勢の子供が走り回る中にあっても我が子の姿は常に捕らえているかのように。 何らかの不思議・怪奇現象を体験したという人も少なくない。八甲田山の雪中行軍で命を落とした方々の霊が、死してなお行軍し続けていたという話。特攻隊の英霊が、戦後も依然として任務を遂行するべく米空母エンタープライズを攻撃し続けていた(そして昭和33年7月17日、当艦はついに廃艦に追い込まれた)という話。旧日本軍の霊に出会ったと話す自衛隊員も多い。しかし、そのことを恐がったり面白がったりするのは相手に失礼だし、まして霊能者になりたいなどと思ってはならない。霊の世界にも正邪があるから、無闇に興味を持って変な影響を蒙らぬようにせねばならぬ。ただし、良い霊には力を貸してもらえるようにすればよいと思う。
○日本人の可能性は無限である アベノミクス第三の矢、成長戦略がないことはない。近未来に必要とされるものは、例えば、電気自動車・燃料電池の実用化(エネルギー問題、環境問題を克服)、介護ロボット・作業補助ロボット(超高齢社会の問題を克服)などがあげられる。企業は、どうしたら儲かるかを考える前に、社会貢献(世の中の人々に喜んでもらえる事業は何か)という発想が先でなければならない。後者の発想がなければ食品偽装のような不祥事が起きる。 そして、各人が自分の親を大切にするのと同様に、企業内では創業者を大切にすることが肝要である。これが意外とできていない企業が多い。大勢の人の協力がなければ達成できなかったはずのことを、上に立つ者が自分の力で成し遂げたのだと有頂天に語る姿はみっともない。もとを糺せば、創業者がいなければその企業の現在はない。国家レベルでいえば「神武創業の精神」を大切にすることである。(ちなみに、来年は神武天皇2600年とのこと。) 創業者の労苦、血の滲むような努力。徳高き創業者なら、ときには命懸けで事に対処してきたという逸話も多い。組織のトップに立つ者には逃げ道はない。そんな姿を知らずに安全な場所に庇護されて育った二代目あるいは三代目が、組織を潰してしまうことも多い。逆に困難に立ち向かっていく二代目あるいは三代目には、亡くなった創業者が必ず手を貸してくれるものだ。創業者が後継者に自ら語りかけることもあれば、他者の口を通じて創業者の意思が示されることもあるだろう。あるいは、いつの間にか自然と良い方向に導かれることもあるだろう。個人レベルにおいても、亡き親があるいは先祖が子孫に手を貸してくれたと実感することがある。 このような体験は、誰もが思い当たる節があるのではないだろうか。志を強く持ち、それに向かって一所懸命努力する姿勢がありさえすれば。
○今在る環境から問題性を掴む どこの企業においても、現場の社員が頑張って下支えしていなければ衰退する。社員のモチベーションアップを図り維持させねば、企業はもたない。組織において人的に最も弊害となるのが派閥である。切磋琢磨の健全派閥はまだよいが、目先の個人的利益を求める志の小さな社員が多い企業は成長できない。なぜなら、社内で必ず足の引っ張り合いが起きるから。実力もない自己中心の指導者ではなく、社員やその家族のことを思いやることのできる人の下で一所懸命に働きたいと、誰しもが願うだろう。 超高齢社会においては、例えば、体力が衰えた熟練工が建設現場で重い荷物を持てなくなっていく。家庭での老々介護はまだマシな方であり、認々介護(認知症老人が認知症の親・配偶者を介護)という語も使われることになろう。介護される側も辛いが、介護する側も実に大変だ。ヘルパーという仕事が本当に勤まる人(例えば老人の下の世話ができる人)は少ない。そこで、お互いが精神的にも肉体的にも緩和される介護ロボット、体力が衰えた熟練工が現場で楽に機材を運ぶことができる作業補助ロボットなどの開発は不可欠だ。
○一極集中の弊害 さて、一つのことを完成させるためには、①資金提供者 ②知恵を出す者 ③現場実務を遂行する者が必ずいる。少子化のため③は減るが、②はいっぱいいる。しかし、もっと少ないのが①なのだ。だから一極集中は困るのだ。現在の大阪には、資金提供力のある企業が少なくなった。他の地方も然り。 一極集中の問題は、文化水準の格差をもたらす。それが人口分布にも顕われる。全国でみれば過疎化の問題が深刻で、地方で仕事がなければ若者はやがて高齢となる親を故郷に残して都会へ、しかも圧倒的に仕事も確保しやすい東京やその周辺へ移動する。情報も文化も先端を行く都会へと。いきおい、故郷へ戻って家業を継ぐことはなくなる。 地方創生を政策に掲げる政治家もいる。問題意識はよいが、口先だけで特に目覚ましい成果は上がっていないように思われる。地方の活性化は、ふるさと納税だけでは達成できない。「人返し令」は非現実的だが、各地の特徴を生かした誇りの持てる仕事を確保していくのが政治の手腕であろう。 ひとつの提案なのだが、どの地域においても「郷土が生んだ偉人」がいるものだ。有名無名を問わず、それらの先人たちのことを誇りに思い、顕彰し感謝し、できれば自分もその後に続くように念じて活動していけば、必ず力を貸してもらえるのではないだろうか。それと、一票の格差を問題視してはならない。全国各地離島に至るまで、日本人が住んでいることが国の守りの基盤となる。「千島のおくも沖縄も八嶋のうちの守り」(『蛍の光』歌詞④)だということを。
○日本の近代史を改めて考えてみる 話を近代社会の成立3条件に戻してみる。戦前の安全は自前で賄い、食糧もなんとか自給していた。日米戦争はエネルギーを求めての戦いであった。現代の価値観・モノサシで過去を批判してはならぬ。また、事態は国内事情からだけでみるのではなく、相手国との「関係性」で見なければならぬ。戦争は外交の延長と考えられていた。(今も日本以外はそうなのであろう。)相手あってのことであり、「洵ニ已ムヲ得ザルモノ」(『開戦の御詔勅』)があった。だが、始めたからには勝たねばならなかった。日露戦役では陸海軍が結束して戦い、常に止めることを考えていた。大東亜戦役にはそれがなかったのか。 当時の外部事情をみると、「アジア諸国に迷惑をかけた」は当たらない。当時タイ以外に国は存在せず(隣接地域のインドシナが仏領であったために、その内実は大英帝国の監督下にあったが)、現地人は白人の植民地政策に苦しめられていた。大東亜戦で日本が白人を駆逐した。イギリスは制海権を失って降参し、香港では現地人も白人と平等に扱われるようになった。東南アジアを訪問した政府首脳が、戦前の行為を謝罪するという滑稽さは、漫画にもない噴飯物ではないか。 植民地とは侵略によって分捕ったもので、現地人を奴隷のごとく扱き使い、収穫物を搾取したのが植民地支配であった。台湾は日清戦争後に割譲された地域、南樺太は日露戦争後に割譲された地域、シナの属国だった朝鮮は日本が大きな犠牲を払って守った地域であり、その後合法的に併合されたのであって、植民地ではない。ただ、大企業と零細企業が合併した場合のごとく、当時はあまりにも日本と朝鮮に格差があったため、日本の政策による朝鮮統治となったのは仕方のないことであった。 日本は朝鮮の近代化を図るために多大な資金を持ち出した。国民には大きな負担となった。職を求めて日本に渡った朝鮮人が多かったが、徴用はあっても国家による強制連行はなかった。朝鮮の伝統文化を尊重する姿勢もあった。戦時下では日本人は徴兵されたが、朝鮮人は志願制とされた。それでも募集員数をはるかに上回る朝鮮兵が集まった。朝鮮統治は日本人に大きな負担をかけ、大東亜戦は日本・台湾・朝鮮が共に白人と戦った。日本から財産を持ち出して朝鮮の近代化を図り、戦後は無償でそれらの財産を現地に残して同胞は引き揚げた。人々の心中はさまざまであったかも知れないが、当時の「関係性」をみれば、朝鮮に対して日本がお詫びしなければならない理由はない。 明治43年の日韓併合における関係性は、日本が朝鮮の歴史伝統文化を尊重し、日本が多大な犠牲を払っても防波堤となって保護すべく努力したということになる。特筆すべきは、日本の皇室が李王朝を傘下に置かずに対等に付き合ったことである。なかでも梨本宮方子女王が李王垠に嫁がれ、朝鮮のために一生を捧げられたことは周知の事実である。(今では知らない人の方が多いかも知れない。) だが、始末は占領中に発足した戦後の「民主化」教育でつけられた。ポツダム宣言で日本は無条件降伏(*)して戦後の民主化が始まったことにされ、それまでは全て暗黒の時代と位置づけ、すべて日本が悪かったと植え付けられたのだ。主権なき日本は間接統治され、恰も自らの意思で反省し、物事を決めたかのように巧妙に演出された。 (*) 少なくとも次のことには留意しておきたい。 ①ポツダム宣言は英米支の名で出されたものであり、中立条約有効期間中のソ連は表向き参加していない。(実際はトルーマンの考えによる宣言であったとのこと。) ②日本政府は当初、国体護持が確保されなければ応じられないとして受諾しなかった。(トルーマンが原爆投下の実験をするため、直ぐには日本が応じられないように仕組んでいたという。) ③その間に「敵ハ新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ頻ニ無辜ヲ殺傷シ惨害ノ及フ所真ニ測ルヘカラサルニ至ル」(『終戦の御詔勅』)。罪無き同朋が被爆後五年間のうちに、広島で20万人、長崎で14万人が犠牲となった。 ④政府は「天皇ノ国家統治ノ大権ヲ変更スルノ要求ヲ包含シ居ラサルコトノ了解ノ下ニ受諾スル」と発信した。拘り続けたのは国体護持であった。 ⑤御聖断が下り、政府はポツダム宣言受諾の旨を伝えた。宣言文でアメリカが無条件降伏を求めたのは日本軍に対してであり、あらゆることに無条件降伏を強いた宣言ではなかった。つまり、条件付きの降伏であった。 ⑥ソ連は中立条約を破って日本の領土を侵略しただけでなく、ポツダム宣言にある「日本軍は武装解除の後、各自の家庭に復帰させ」ないばかりか、60万人以上の同胞をシベリアなどに抑留して強制労働させ、少なくとも5万5千人を殺した。
○7年の占領が終わり主権は回復されたというが 昭和20年の終戦後における日米の関係性では、日本の歴史伝統文化が破壊され、神道指令をはじめ二度と立ち上がれぬような占領政策が行なわれた。戦争責任はすべて敗戦国にあり、戦勝国にはないとされた。だが、ドイツが戦争責任はすべてナチスの責にしたように、日本でも一部の軍国主義者の責にして国民はむしろ被害者で責任なしとしたことが、当事者意識のない政治家を多く輩出することになった。事実は違うだろう。ヒトラーはドイツ国民に支持されて大統領になり、ドイツ国民はナチスの指導に従ったのだから。 やがて、日本に千載一遇のチャンスが訪れた。昭和27年4月28日の主権回復である。このときに、占領下で押し付けられたことをすべて一旦無効にして再出発すればよかったのである。先にも述べたように、当時の吉田首相がそれをしなかったため、占領中の言い分がそのまま継続することになった。これが根本で、痛恨の一大事となり、未だに是正できていない。 外交はあくまで国益のための駆け引きである。表面はうまく取り繕おうとするが、相手の本心は別にあるということ。国益を考えると、謝罪はしないほうがよい。まして、歴史の事実に基づかない案件には絶対に謝罪してはいけない。特に、嘘も百遍唱えれば本当になる、口は嘘をつくためにあるというのを国是としている独裁国には。謝罪すればそのカードが永久に使われ続け、金品等を揺すり取られるうえ、嘘の話が本当にあった事件とされてしまう。永久に損をし続け、先達の徳を台無しにしてしまう。 謝罪を要求する側も、愚かにも安易に謝罪に応じる側も、その時代の当事者ではなくなりつつある。これ以上させないようにしたい安倍内閣には、一定の支持が保たれているが、果たして靖国神社に玉串料だけを奉って参拝には来ない首相に、英霊が力を貸してくれるのかどうか。 天皇陛下の「先の大戦で亡くなった人々の死を無にすることがないよう、常により良い日本をつくる努力を続けることが、残された私どもに課された義務であり、後に来る時代への責任である」との年頭の御言葉に従って、国民一人ひとりがそれぞれの持ち場立場に応じて生きてゆくことが、先達の願いでもあると思う。ひとたび肉体亡べば、タマシヒは幽の世界に戻り、人として顕の世界には蘇らない。幽の世界で自己のタマシヒが先達のタマシヒに再び相まみえたとき、顔を上げて堂々と復命できるだろうか。
□結 近世・近代・現代の流れのなかで ○他国との関係性が薄い近世から関係性の濃い近代へ 徳川時代は権威と権力の分立、朝権と幕権の分立の工夫に見る合理性、さらに幕藩体制においては親藩・譜代と外様の配置バランス(要地に親藩・譜代、遠隔地に外様、要職には前者、後者は幕政に携わらせないが石高は多く付与)を行なったことは、今日においても参考になるだろう。 その後、慶安の変が起こり改易等の処罰を緩めて文治政治の時期に入る。学問は儒学、なかでも朱子学を正学として子弟に学ばせ、優れた儒学者が多く登場した。古学の山鹿素行は『中朝事実』を著し、「易姓革命の支那ではなく万世一系の日本」こそが中華であると説いた。 近世後半になると、漢心(からごころ)を批判する国学者が現れ、「踏み分けよ 大和にはあらぬ 唐鳥の 跡を見るのみ 人の道かは」と戒めた荷田春満をはじめ、賀茂真淵、本居宣長、平田篤胤らが万葉集・古事記の研究に着手し、仏道を廃する復古神道への流れができた。(やがて神葬祭が復活し、明治維新における神仏分離令により神仏習合は廃止され、神社と寺院は分離した。日本の近代化はこのことと無関係ではないと、筆者は考えている。) 嘉永六年、いよいよマシュー・ペリーが来航し、幕府は有力な外様大名にも意見を求めるようになる。勅許なき開国を強行した井伊直弼に対して吉田松陰が登場し、幕末期を迎える。当のアメリカは南北戦争に明け暮れるなか、オランダに代わってイギリスが主導権を握る。明治政府は、蘭学から英語に切り替え、翻訳により多くの者が西洋文明を学んでいく。(印度などでは英語を翻訳することなく、そのままを受け入れたことにより、一部のエリートにしか学問ができなかった。)そして、和魂洋才を掲げながら近代へと入る。先進国から専門講師を招聘し、教育はアメリカ、技術はイギリス、医学・法律はドイツ、美術はイタリアから学んだ。 欧米の植民地になることを免れ、近代化を図る日本であったが、大きな問題を抱えることになった。日米修好通商条約が、治外法権・関税自主権の欠如・片務的最恵国待遇を認めた著しい不平等を強いられるものだったからである。一国と結べば次々に同様の不平等条約を結ばされる結果(安政の五カ国条約)となった。この痛恨事を回復するのに条約改正交渉を積み重ね、日清・日露の二大戦役を経て漸く不平等条約が解消できるまで、実に半世紀以上の歳月を要した。 さらに第一次大戦・日独戦争を経て、日本は列強と対等に付き合えるようなったかに見えた。ところが、またしても挫折感に見舞われた。第一次大戦後の国際連盟委員会において、日本は「人種平等の原則」を規約に入れるように、つまり人種差別の撤廃を提案した。裁決の結果、11対5の賛成多数(植民地をもつ英豪などが反対)であったが、議長の米大統領ウィルソンは「全会一致でないので不成立」と宣言。また、アメリカはモンロー主義を理由に上院が批准せず、国際連盟へは不参加。さらには、連邦議会にていわゆる「排日移民法」を可決。その後も満洲における日本の権益を横取りしようとして対立、支那事変後の援蒋ルート、ABCD包囲網による対日経済封鎖、最後はハル・ノート。
○戦後70年の現代を歴史の断絶から救え 以上、筆者の主観で近世から近代をごく簡単に概観してみた。不平等条約の問題解決に半世紀余りを費やし、さらに人種差別の問題に挫折して四半世紀余り、大東亜戦・大東亜会議(昭和18年11月5日~6日)を経て、アジアに多くの独立国が生まれた。それは日本の大きな犠牲の上に成ったことでもあった。敗戦国日本は占領下におかれ、千島・南樺太は旧ソ連に奪われ、台湾は共産党に追われた国民党が支配するところとなってしまった。 戦後70年を経た現代は、領土問題・拉致問題を含む安全保障の問題、エネルギー確保の問題、食糧の問題に直面している。これらのことをいかに解決するかが最重要課題となっていることは言うまでもない。しかし、そこには「歴史の断絶」という根本的大問題があったということに皆が気づかねばならない。近代の始まりから大東亜戦を経た後の現代について、他者との関係性も見据えながら歴史の真実を学ぶことが大事だ。 19世紀はパックス・ブリタニカ、20世紀に入って新興アメリカが台頭し、ついに日米戦争が勃発、21世紀になるとアメリカが衰退し始め、中国が台頭し始めた。さあ、どうすべきか。文化相対主義がいいのか、普遍主義でなければならないのかは、アメリカの出方一つで決まっていた時期は過ぎ去ったようである。キリスト教が普遍主義を貫こうとしても、イスラム側はものともしなくなっている。だから、全面的にアメリカに頼る時代は終わったといえる。 戦後の70年は、アメリカによって安全・エネルギー・食糧が確保できたので、政治の在り様はアメリカ追従となった。ある意味、そこさえ外さなければ良し悪しは別として国は維持できた。しかし、これからは危うい。アメリカの安全保障に陰りが見え始め、中共は尖閣を手始めに、小笠原諸島、沖縄諸島へも侵略の触手を伸ばしている。航空自衛隊のスクランブル発進がなければ、敵はとっくに実力行使していたであろう。いざというときの米軍の出方も探っているから、今のところはまだ少し日本に対しては慎重になっている部分もある。手っ取り早い手段は、沖縄から米軍を追い出すことだから、とっくの昔に運動家のなかに工作員を送り込んで扇動している。その工作にまんまと嵌ったのが翁長知事である。 今でも日本は平和だ、憲法9条のおかげだと騒いでいる者がいることに驚きを禁じ得ないが、押し付けられた憲法、どこの国も真似したがらない憲法だという事実を無視しての独善である。必要なときは外交で戦わねばならぬのに、戦うことを忘れたというより戦うことすら知らない坊ちゃん政治屋・弱腰外務官僚らが国を滅ぼす。嗚呼人栄え国滅ぶ、盲いたる民世に踊る。 泥縄式ではあるが、ようやく集団的自衛権という語を用いて対応しようとしている政府。少なくともアメリカ、アジアの周辺国とは連携しておかねばならぬ。危機が迫っているのに、違憲か合憲かなどと不毛の議論を展開している場合ではない。現実対応を急がねば、国の安全と国民の生命・生活が危ない。 それは今生きている国民の生活だけの問題ではない。基本的には、これまでの日本を築いてきた日本人、これから生まれてくる日本人を意識して、来し方行く末を包含した日本文明そのものの存否が問われている、と受け止めるのが妥当である。その中核にあるのが皇統なのである。皇統を踏まえてこの70年を考えると、いかに現象的な問題に終始して、物事の本質を見落としていたかが明らかになるだろう。負の70年を未来の糧にする思考法の根本に何を据えるかで、以後の答えもその内容を変えてくる。そこを意識しつつ、ここで取り上げた諸問題を通観してもらえれば幸いである。 (終)
平成27年7月24日 文責 阿部好孝
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日本キリスト教婦人矯風会(高橋喜久江会長)、韓国挺対協(尹貞玉代表)、VAWW-NET(元・朝日新聞記者の松井やより代表)、そして福島瑞穂弁護士の繋がりについて舘(たち)雅子先生が証言しています。必見です⇒http://www.youtube.com/watch?v=gdNtG_H_Fvw
理解出来ないので教えてください。
1.慰安婦像を撤去したいのであれば、市議を味方にする必要があるのに何故攻撃(訴訟)しているんですか?
2.河野談話がある限り訴訟は勝てませんが、アメリカを攻撃する団体に政府が呼応すると思う理由は何ですか?
3.弁護士が降りるなんてことは、訴訟準備不足以外の何者でもありませんが、訴訟準備も万全に行わず、人様のお金を6億も消費しようという行動は、どこに責任感があるのですか?外部圧力うんぬんは、当然事前に予測していて当たり前の話です。
4.本当に慰安婦像を撤去したい人にとっては、このような雑(基本的な部分で準備不足・味方にするべきのアメリカを攻撃している)で派手な動きは迷惑だと思いますが、どう思われますか?
いろいろ考えましたが、以上が理解出来ないので教えてください。
お手数をおかけしますがよろしくお願い申し上げます。
慰安婦性奴隷が、捏造である事を解っていて、その噓を
世界にばらまこうとする、中国、韓国、北朝鮮とメデア。
徹底的に洗脳されて、噓を信じ込み、聞く耳を持たない欧米人に対して、
どのような方法で、真実を伝えていけるか、その方法について
貴方のご意見を具体的に 教えてください。
「Sex Slave]の定義は、「継続的に性行為を強要される状態にある人」です。ですから、親に売られたとか、騙されて慰安婦にされた人たちは「Sex Slave]です。
「性奴隷」の定義はどのようですか?
7771さんへ 日本は魂の国より
GAHTに、3か月分まとめて寄付しました。日本政府が動かない現状では、なでしこアクションとGAHTだけが頼りです。
売春慰安婦「paid comfort prostitute」 に呼びかたを変えるべき。日韓台軍人は1週間分の給料を売春慰安婦に払った。南アジアでは少しは犯罪者が拉致とかあっただろうが、個人犯罪で日本が認めた売春慰安婦じゃない。
戦後70年の現代を生きる
~ 負の70年を未来の糧にする思考法 ~
□起 国史を通観し現在に至る
○戦後70年を歴史の断絶と観る
国史上の三大改革としてあげられる出来事は、大化の改新・建武の中興・明治維新であろう。これらは「歴史の連続」のなかで起こってきたことで、生かされ生きてきた日本人本来の精神を取り戻そうと、捨身の行ないに終始された人々のおかげである。ひとたび悪が現れても必ず正そうとする先達が登場した。蘇我馬子に対する物部守屋、蘇我入鹿に対する藤原鎌足、弓削道鏡に対する和気清麻呂、藤原時平に対する菅原道真、足利高氏に対する楠木正成、その楠木公に続こうと行動を起こした幕末の志士たち‥。
前の二つは現代に生きる我々からはあまりにも大きな歳月の経過があり、想像するのが困難な時代であるが、近代に成し遂げられた明治維新は想像できる余地はあり、その余慶が現在にもたらされている。幕末の志士たちを想起してみる。欧米列強の植民地になることを回避するために奔走し、先駆けられた。滅私奉公の時代、公に殉ずる心掛けの時代、大和魂の培われた時代は、曲がりなりにも戦前までは続いた。
ところが敗戦後、占領下におかれて自主独立が奪われた。今から思えばたった7年間のことである。しかし、そこで起こったことは「歴史の断絶」であった。さらには、伝統の断絶、精神の断絶、文化の断絶‥。その余殃が戦後70年の現代に至るも影を落としている。今どうしてよいかわからない。今後進むべき方向がわからない。己の存在理由がわからない。(自殺者が多いのもそのためか。)
ただ、何かを変えていかねばならないという思いは国民にある。そのひとつの現れが平成13年の小泉内閣発足時の支持率にあった。自民党をぶっ壊す、聖域無き構造改革の旗印に皆が期待したからである。最も印象深いのは、自衛隊イラク派遣だった。筆者の弟は防衛省キャリア官僚として、サマーワへ赴いた。人道支援とはいえ迫撃砲が飛んでくるなか、「行く身になってみろよ」を実感した。
○辛くも残った皇統
歴史の断絶のなかで、幸いにして辛うじて残ったものが一つだけある。それは国体護持とまでは言い難いが、「天皇制」(*)である。源頼朝といえども、徳川将軍といえども、朝廷からの任命を受けた臣下であった。幕府体制が揺らぎ混乱を招いたときに、我国は幸いにして天皇(帝、みかど)がおわしました。帝に対する意識の強弱はあったであろうが、国の危機とみるや、志ある先達は帝さまに神習おうとしたのであった。
戦後70年はまさに現代である。戦前までを近代とすれば、近代に生きたことのある人々の数は、わずかになった。ここに大きな危機感が生じる。現代は「私栄を企図して公儀を破る」時代となり下がった。公私の区別ができないのは、学校教育から修身がなくなったからであろう。それでも昭和の30~40年くらいまでなら、まだ家庭教育のなかで庭の教えが多少は効いていた。
(*) この表現はコミンテルンの文書に出てきたもので、明らかに意図的な造語である。現在の日本では、まだ一部で公然と用いられている。その前提で、別の言い方をすれば、「制度としての皇位、あるいは御位」とでも言えるか。
諸悪の根源は占領下の7年である。この7年の間に始まったものは、すべてその成り立ちが悪い。成り立ちの悪いものがいい結果をもたらす筈がない。その最たるものが現行の憲法である。護憲派は一字一句変えるべきではないという立場らしい。昭和27年4月28日、主権回復した日、理屈からいえば占領下において決まったものは全て破棄すべきであった。そして、戦前からのものを引き継いで新たなる出発(日本人の手による改革)をすべきであった。
だが、吉田茂(首相在任期間:昭和21年5月22日~昭和22年5月24日、および昭和23年10月15日~昭和29年12月10日)はしなかった。再軍備も拒否した。結果、占領下の7年が戦後の70年を縛り続けることになった。現行憲法を維持する限りは、法的にも祖国は未だに占領下におかれているのと同じである。自主憲法の実現はほど遠く、せめて改憲しようという動きが芽生えている程度だ。吉田の怠慢によるツケはあまりにも大きい。(一方で、彼は廃止された神宮皇學館大学の復興には尽力し、新制皇學館大学の初代総長に就任している。)
○既往の二つの談話を成立させた3つの弱点を有する日本国
「戦後70年談話」が村山・河野談話の継承を前提とするならば、何らかの「お詫び」のニュアンスが入り、敵を利することになる。敢えて「敵」としたのだが、昔蒋介石が口述した『敵か友か』を想起したからである。外交はきれいごとではなく、西郷隆盛や陸奥宗光のように「命を懸けて」やるべきものだから、内心にしっかり秘めたものがなければならぬ。つまり、判断の拠り所をピシッと決めて事に当たらねば失敗する。
戦後の外交は、その多くは従事した者たちによる保身と譲歩の塊ではなかったか。かつて、下関砲撃により列強から報復を受けた長州藩から講和談判に当たった高杉晋作は『古事記』を語ったという。70年談話は日本の立場を語らねば意味がないどころか、逆効果となる。それは、自前の歴史認識に基づかない、日本降伏の条件であったポツダム宣言の対日認識を前提にしているからだ。
「安全・エネルギー・食糧」という社会成立の三条件を的にすると、思考がしやすくなる。戦後保守勢力の安易さは、危機意識の欠如であり、気の緩みにつながる。例えば、海外からの食糧輸入が止められたら‥という発想がない。(その点では、台湾のほうが自主独立の国である。)
安全保障の問題は、自ら安全な場所・立場にいる者(最前線にいない者)には、平和と叫ぶだけでは安全は実現されないことがわからない。現に尖閣や沖縄が危ないではないか。日中中間線上に設置されたガス田は直ちに軍事基地となり得る。半端な経済制裁を行なっても、拉致問題は未だに解決の糸口すら見えてこないし、ミサイル発射の脅威が常にある。
それでも、祖国の平和が保たれていると本気で思っているのか。相手は「ズボンを履かなくても原爆を」と核実験を繰り返してきた。五星紅旗の赤地は革命の色、血の色である。(ちなみに日章旗の赤は太陽、白地は光を表す。)幕末維新の先達は、列強の植民地にされないようにと命を削ったものだが、現代人は敵からの侵略を受けてからでないと目が覚めないらしい。それではもう遅い。だから、現政権が少しでも手を打っておこうと模索していることには、協力的でなければならぬ。
フィリピンとの合同軍事演習、大いに結構ではないか。きな臭いなどと言う者は、批判のための批判で飯を食らう唾棄すべき手合いである。日清・日露の戦いは何故起こったのか。100%朝鮮である。地政学的にも絶対国防圏であった。そのことをよく知っていた先達は、国家百年の大計のために多大な犠牲を払っても守り通した。当時の人々もよく応えて防人となられた。
今、そのような国難に接して立ち上がる国民がどれだけいるのか。偏差値エリートだけが出世して要職につかれるようなしくみは変えなければならぬ。道具の歴史は進化していくであろうが、精神の歴史は衰退しているのが現実である。英会話に堪能であることよりも、「人物の陶冶を優先すべき」という安岡正篤(陽明学者・思想家、明治31年~昭和58年)の考えに賛同する。
□承 日本が悪いから負けたのか
○日本は侵略者として歴史の法廷に立っているかのようだが
戦後生まれの世代は、学校で「戦前の日本は悪いことをして戦争に敗れた」と教えられた。そして、日本が一方的に悪かった、負けてよかったのだ、平和な日本になったのだと思い込まされた。多くの知識人が「日本は侵略という罪を犯したのだ」と思い込んでいる。ひどい連中ともなると「天皇制があったが為に戦争した」と嘯いている。
それなら「天皇制のない国は戦争に突入しなかった」ことになるが、事実は天皇制なき国々のほうが歴史上数え切れないほどの戦争をしてきたではないか。そのために世界の各地で国家興亡が繰り返され、無数の人々が家を焼かれ国を追われ殺されてきた。地球上で日本だけが国家興亡なく二千数百年の歴史を刻んできた。(ちなみに「中国三千年」とは真っ赤な嘘である。現在の中国は高々六十数年の歴史しかない。易姓革命が繰り返され、焚書坑儒の如く前王朝の歴史が抹殺され、国家興亡の連続であった支那大陸であるから、「支那の歴史三千年」というのならば許容できるが。)
○戦争はしたが、日本だけが侵略者とする偏見を排す
戦争は絶対にいけないものだ―この思いは、戦時下に生を享けた人々には痛切なものがあるし、戦後生まれの者達にとっても悲惨な映像を見るにつけ「二度と戦争してはならない」と思わぬ者はないだろう。そのことは人としての道徳観念もさることながら、多分に無差別爆撃や原爆投下後の惨状を見てのイメージにあり、体験談から聞く悲惨な思い出話によるところも大きい。銃後の人々には直接戦禍を被った体験があり、語り部となった人もいる。
日本軍は果敢に戦ったが、決して侵略が目的ではなかった。従軍した日本兵は優しい人が多かった。例えば、現地の支那人を匪賊から守り、ひもじい子供に飯盒の飯を分け与えるなど保護した。兵士は、いつ襲ってくるかわからぬ匪賊の襲撃に備えて就寝時もゲートルを外すことはなかった。日本軍が駐屯する村の治安は良かった。しかし、戦争体験自体はいい思い出ではないために、戦地に赴いた人は多くを語っていない。
そこに付け込んだのが中国・韓国で、自らの残虐性を日本兵の残虐性に摩り替えて世界に喧伝している。彼らには道義的感性はなく、ありもしない南京大虐殺・従軍慰安婦を捏造して日本から賠償金等を揺すり取る作戦を実行し続けている。しかも、永遠の政治カードとするつもりである。
日本政府による強制連行もされていない、従軍もしていない、単なる商売でやっていただけなのに、日本軍の性奴隷にされたという慰安婦の問題に対して、このまま日本がおとなしく黙っていたら、本当にあったことになってしまう。まさに歴史戦・宣伝戦である。もっともっと史実に基づく理論武装をしなければならない。歴史は真実の記録でなければ意味がない。歴史の真実を示して、確たる証拠に基づかない相手の言いがかりを一蹴し、そのことを世界にアピールしておかねば永遠の外交的敗北となり、子孫への禍根を残す。
○戦時における残虐な行為はどっちだ!
戦争現場では戦闘員同士の殺し合いが行なわれる。だが、戦時国際法(欧州人がつくった戦いのルール)では、「非戦闘員を攻撃すること」は禁じられている。日本はそれを守った。重慶爆撃に際しては、予め非戦闘員への避難勧告をしてから攻撃を実施した。真珠湾攻撃では主力艦船を狙い、石油タンク・ドックは攻撃しなかった。一般市民が巻き添えをくわないように配慮したのであろう。
それに対してアメリカは、勝敗の決着は実質上ついていたにもかかわらず、日本の各都市に対して無差別爆撃を敢行し、広島・長崎に原爆を投下した。ソ連はヤルタ秘密協定(日本は当然知らされていない)を拠り所にして、終戦一週間前に突如中立条約を破って参戦し、無抵抗の非戦闘員を惨殺した。捕虜は戦い終われば同時に各本国に送還するという国際法に背き、肉体の続く限り酷使して殺した。われわれ日本民族は、これらのことを肝に銘じておくべきである。
信じられない残虐さで日本人が大量虐殺された通州事件、通化事件‥。リンドバーグの『戦中日記』には、日本兵捕虜・遺体に対してアメリカ兵がしたおよそ信じられないようなことが記録されている。ラス・カサス著『インディアスの破壊についての簡潔な報告』にあるキリスト教徒の残虐性にも匹敵するものであった。
○戦争の勝敗が善悪の区別にすり替えられた
極東軍事裁判、東京裁判とも言われるアメリカをはじめとする戦勝国が敗戦国日本を国際戦争裁判の俎上に乗せたとき、印度のパル判事が東条英機以下全員を無罪と主張した。敗者を戦争犯罪者として裁きの庭に立たしめる法はないからである。近代刑法における原則である「事後法の禁止」に違反するし、敗者を処刑する理由があるならば勝者側にも処刑されるべき者もあったはずだ。欧米こそが憎むべきアジア侵略の張本人であるのに、日本が侵略戦争を行なったということを歴史に留めることによって自己のアジア侵略の正当性を誇示し、同時に日本の過去十五年間一切を罪悪であると烙印することが目的であった。
すなわち、戦争の勝敗が善悪の区別にすりかえられてしまった。日本は悪いから負けたのだと。戦争は正義が必ず勝つのか。否、正しい側が勝つとは限らないのが歴史の真実である。物部守屋・捕鳥部萬、楠木正成・新田義貞などをみても明らかなように、正義が勝つとは限らない。(だが、戦いに敗れ滅びても偉人として後世の者が称え、尊敬の念をもっている。)世界の歴史(戦争史)をみても、同様に戦勝者が正しいとは限らず、武力で勝った側が負けた側の領土を奪ったというだけの話である。善悪とは無関係であった。
○座して滅ぶよりも戦って亡ぶ道を選んだのだが
絶対にしてはならぬ戦争をなぜしたのか。大東亜戦争は日本が侵略を目的として起こしたのか、大和民族として已むに已まれぬ戦いであったのか、英米支蘇の悪辣さをもっと研究しておかねばなるまい。日本が立ち上がる前に、既にアジアの大半が欧米に侵略されていたのだ。その魔の手が日本にも及んだ。当時の日本人は、座して滅ぶよりも戦って亡ぶ道を選んだ。なぜ戦わねばならなかったかを研究しておく必要もある。鬼畜米英の前には無力であってはならない、不法侵略に対する自衛力はなくてはならない、無力から奴隷となるのを潔しとしなかったのが、戦前の日本人であった。
ところが、祖先の尊い血潮で守った祖国を戦後になって自己の利益のために売国奴と成り下がった者達がいた。彼らが父母となってその子孫に伝えていくと、本当に恐ろしい国家の危機が訪れる。それが戦後70年の今のありようである。
「戦争反対」を唱えながら国会議事堂前でデモ行進しても、平和には寄与しない。むしろ、対日戦争を誘発する条件づくりをしている。
国の守りを固めて初めて、国の安泰が図られるのである。選良たちは、政治屋ではなく真の政治家として立ち直るべきである。自己の名誉利益のために心を揺るがすことなく、上(かみ)御一人より下(しも)万民に至るまでその期待に応えて粉骨砕身し、国家の安泰・国民の和楽に尽くしてもらわねば困る。このままで行くと、「日本は悪いから負けた」という臆説が益々強化されてしまう。
□転 先達の力を借りるべき秋(とき)
○「幽顕一体」を信じられるか否かが大勢を決する
以下の文章は「幽顕一体」を信ずることが前提である。人は身体だけでは生きられず、火の気であるタマシヒが宿って初めて血が通い、体温が保たれて活動できる存在である。人はもともと「火留」と書かれた所以である。身体とタマシヒは、酒瓶と中味の酒に似た関係にあり、身体はタマシヒの入れ物の如く、身体が健全でなければタマシヒは納まることができない。だが、酒は決して酒瓶ではなく、酒瓶に納まる中味である。したがって、人の本体は身体ではなく、タマシヒの方であると言えよう。
この世(顕)は、正邪・善悪・清濁が入り乱れた世界である。だから、正しいからその方向へと進むとは限らない。よくない方向へ行ってしまうこともあるから、気をつけて進まねばならない。人はそれぞれこの世での役目を終えれば、あの世(幽)へと旅立つ。身体は滅びてしまうが、霊魂・霊魄は目に見えないが残る。同時に、この世で培った知識・技能・性格・心情なども残る。
したがって、後に続く者にも鬼籍に入られた先人との交流が可能である。優しかった人は純粋に優しい気線を残すし、意地悪だった人は死してなおいっそう意地悪である。先人が親なら子供のことが気になるだろうし、企業の創業者ならその行く末を見守るのは、自明の理であろう。恰も運動会を見に来た親が、大勢の子供が走り回る中にあっても我が子の姿は常に捕らえているかのように。
何らかの不思議・怪奇現象を体験したという人も少なくない。八甲田山の雪中行軍で命を落とした方々の霊が、死してなお行軍し続けていたという話。特攻隊の英霊が、戦後も依然として任務を遂行するべく米空母エンタープライズを攻撃し続けていた(そして昭和33年7月17日、当艦はついに廃艦に追い込まれた)という話。旧日本軍の霊に出会ったと話す自衛隊員も多い。しかし、そのことを恐がったり面白がったりするのは相手に失礼だし、まして霊能者になりたいなどと思ってはならない。霊の世界にも正邪があるから、無闇に興味を持って変な影響を蒙らぬようにせねばならぬ。ただし、良い霊には力を貸してもらえるようにすればよいと思う。
○日本人の可能性は無限である
アベノミクス第三の矢、成長戦略がないことはない。近未来に必要とされるものは、例えば、電気自動車・燃料電池の実用化(エネルギー問題、環境問題を克服)、介護ロボット・作業補助ロボット(超高齢社会の問題を克服)などがあげられる。企業は、どうしたら儲かるかを考える前に、社会貢献(世の中の人々に喜んでもらえる事業は何か)という発想が先でなければならない。後者の発想がなければ食品偽装のような不祥事が起きる。
そして、各人が自分の親を大切にするのと同様に、企業内では創業者を大切にすることが肝要である。これが意外とできていない企業が多い。大勢の人の協力がなければ達成できなかったはずのことを、上に立つ者が自分の力で成し遂げたのだと有頂天に語る姿はみっともない。もとを糺せば、創業者がいなければその企業の現在はない。国家レベルでいえば「神武創業の精神」を大切にすることである。(ちなみに、来年は神武天皇2600年とのこと。)
創業者の労苦、血の滲むような努力。徳高き創業者なら、ときには命懸けで事に対処してきたという逸話も多い。組織のトップに立つ者には逃げ道はない。そんな姿を知らずに安全な場所に庇護されて育った二代目あるいは三代目が、組織を潰してしまうことも多い。逆に困難に立ち向かっていく二代目あるいは三代目には、亡くなった創業者が必ず手を貸してくれるものだ。創業者が後継者に自ら語りかけることもあれば、他者の口を通じて創業者の意思が示されることもあるだろう。あるいは、いつの間にか自然と良い方向に導かれることもあるだろう。個人レベルにおいても、亡き親があるいは先祖が子孫に手を貸してくれたと実感することがある。
このような体験は、誰もが思い当たる節があるのではないだろうか。志を強く持ち、それに向かって一所懸命努力する姿勢がありさえすれば。
○今在る環境から問題性を掴む
どこの企業においても、現場の社員が頑張って下支えしていなければ衰退する。社員のモチベーションアップを図り維持させねば、企業はもたない。組織において人的に最も弊害となるのが派閥である。切磋琢磨の健全派閥はまだよいが、目先の個人的利益を求める志の小さな社員が多い企業は成長できない。なぜなら、社内で必ず足の引っ張り合いが起きるから。実力もない自己中心の指導者ではなく、社員やその家族のことを思いやることのできる人の下で一所懸命に働きたいと、誰しもが願うだろう。
超高齢社会においては、例えば、体力が衰えた熟練工が建設現場で重い荷物を持てなくなっていく。家庭での老々介護はまだマシな方であり、認々介護(認知症老人が認知症の親・配偶者を介護)という語も使われることになろう。介護される側も辛いが、介護する側も実に大変だ。ヘルパーという仕事が本当に勤まる人(例えば老人の下の世話ができる人)は少ない。そこで、お互いが精神的にも肉体的にも緩和される介護ロボット、体力が衰えた熟練工が現場で楽に機材を運ぶことができる作業補助ロボットなどの開発は不可欠だ。
○一極集中の弊害
さて、一つのことを完成させるためには、①資金提供者 ②知恵を出す者 ③現場実務を遂行する者が必ずいる。少子化のため③は減るが、②はいっぱいいる。しかし、もっと少ないのが①なのだ。だから一極集中は困るのだ。現在の大阪には、資金提供力のある企業が少なくなった。他の地方も然り。
一極集中の問題は、文化水準の格差をもたらす。それが人口分布にも顕われる。全国でみれば過疎化の問題が深刻で、地方で仕事がなければ若者はやがて高齢となる親を故郷に残して都会へ、しかも圧倒的に仕事も確保しやすい東京やその周辺へ移動する。情報も文化も先端を行く都会へと。いきおい、故郷へ戻って家業を継ぐことはなくなる。
地方創生を政策に掲げる政治家もいる。問題意識はよいが、口先だけで特に目覚ましい成果は上がっていないように思われる。地方の活性化は、ふるさと納税だけでは達成できない。「人返し令」は非現実的だが、各地の特徴を生かした誇りの持てる仕事を確保していくのが政治の手腕であろう。
ひとつの提案なのだが、どの地域においても「郷土が生んだ偉人」がいるものだ。有名無名を問わず、それらの先人たちのことを誇りに思い、顕彰し感謝し、できれば自分もその後に続くように念じて活動していけば、必ず力を貸してもらえるのではないだろうか。それと、一票の格差を問題視してはならない。全国各地離島に至るまで、日本人が住んでいることが国の守りの基盤となる。「千島のおくも沖縄も八嶋のうちの守り」(『蛍の光』歌詞④)だということを。
○日本の近代史を改めて考えてみる
話を近代社会の成立3条件に戻してみる。戦前の安全は自前で賄い、食糧もなんとか自給していた。日米戦争はエネルギーを求めての戦いであった。現代の価値観・モノサシで過去を批判してはならぬ。また、事態は国内事情からだけでみるのではなく、相手国との「関係性」で見なければならぬ。戦争は外交の延長と考えられていた。(今も日本以外はそうなのであろう。)相手あってのことであり、「洵ニ已ムヲ得ザルモノ」(『開戦の御詔勅』)があった。だが、始めたからには勝たねばならなかった。日露戦役では陸海軍が結束して戦い、常に止めることを考えていた。大東亜戦役にはそれがなかったのか。
当時の外部事情をみると、「アジア諸国に迷惑をかけた」は当たらない。当時タイ以外に国は存在せず(隣接地域のインドシナが仏領であったために、その内実は大英帝国の監督下にあったが)、現地人は白人の植民地政策に苦しめられていた。大東亜戦で日本が白人を駆逐した。イギリスは制海権を失って降参し、香港では現地人も白人と平等に扱われるようになった。東南アジアを訪問した政府首脳が、戦前の行為を謝罪するという滑稽さは、漫画にもない噴飯物ではないか。
植民地とは侵略によって分捕ったもので、現地人を奴隷のごとく扱き使い、収穫物を搾取したのが植民地支配であった。台湾は日清戦争後に割譲された地域、南樺太は日露戦争後に割譲された地域、シナの属国だった朝鮮は日本が大きな犠牲を払って守った地域であり、その後合法的に併合されたのであって、植民地ではない。ただ、大企業と零細企業が合併した場合のごとく、当時はあまりにも日本と朝鮮に格差があったため、日本の政策による朝鮮統治となったのは仕方のないことであった。
日本は朝鮮の近代化を図るために多大な資金を持ち出した。国民には大きな負担となった。職を求めて日本に渡った朝鮮人が多かったが、徴用はあっても国家による強制連行はなかった。朝鮮の伝統文化を尊重する姿勢もあった。戦時下では日本人は徴兵されたが、朝鮮人は志願制とされた。それでも募集員数をはるかに上回る朝鮮兵が集まった。朝鮮統治は日本人に大きな負担をかけ、大東亜戦は日本・台湾・朝鮮が共に白人と戦った。日本から財産を持ち出して朝鮮の近代化を図り、戦後は無償でそれらの財産を現地に残して同胞は引き揚げた。人々の心中はさまざまであったかも知れないが、当時の「関係性」をみれば、朝鮮に対して日本がお詫びしなければならない理由はない。
明治43年の日韓併合における関係性は、日本が朝鮮の歴史伝統文化を尊重し、日本が多大な犠牲を払っても防波堤となって保護すべく努力したということになる。特筆すべきは、日本の皇室が李王朝を傘下に置かずに対等に付き合ったことである。なかでも梨本宮方子女王が李王垠に嫁がれ、朝鮮のために一生を捧げられたことは周知の事実である。(今では知らない人の方が多いかも知れない。)
だが、始末は占領中に発足した戦後の「民主化」教育でつけられた。ポツダム宣言で日本は無条件降伏(*)して戦後の民主化が始まったことにされ、それまでは全て暗黒の時代と位置づけ、すべて日本が悪かったと植え付けられたのだ。主権なき日本は間接統治され、恰も自らの意思で反省し、物事を決めたかのように巧妙に演出された。
(*) 少なくとも次のことには留意しておきたい。
①ポツダム宣言は英米支の名で出されたものであり、中立条約有効期間中のソ連は表向き参加していない。(実際はトルーマンの考えによる宣言であったとのこと。)
②日本政府は当初、国体護持が確保されなければ応じられないとして受諾しなかった。(トルーマンが原爆投下の実験をするため、直ぐには日本が応じられないように仕組んでいたという。)
③その間に「敵ハ新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ頻ニ無辜ヲ殺傷シ惨害ノ及フ所真ニ測ルヘカラサルニ至ル」(『終戦の御詔勅』)。罪無き同朋が被爆後五年間のうちに、広島で20万人、長崎で14万人が犠牲となった。
④政府は「天皇ノ国家統治ノ大権ヲ変更スルノ要求ヲ包含シ居ラサルコトノ了解ノ下ニ受諾スル」と発信した。拘り続けたのは国体護持であった。
⑤御聖断が下り、政府はポツダム宣言受諾の旨を伝えた。宣言文でアメリカが無条件降伏を求めたのは日本軍に対してであり、あらゆることに無条件降伏を強いた宣言ではなかった。つまり、条件付きの降伏であった。
⑥ソ連は中立条約を破って日本の領土を侵略しただけでなく、ポツダム宣言にある「日本軍は武装解除の後、各自の家庭に復帰させ」ないばかりか、60万人以上の同胞をシベリアなどに抑留して強制労働させ、少なくとも5万5千人を殺した。
○7年の占領が終わり主権は回復されたというが
昭和20年の終戦後における日米の関係性では、日本の歴史伝統文化が破壊され、神道指令をはじめ二度と立ち上がれぬような占領政策が行なわれた。戦争責任はすべて敗戦国にあり、戦勝国にはないとされた。だが、ドイツが戦争責任はすべてナチスの責にしたように、日本でも一部の軍国主義者の責にして国民はむしろ被害者で責任なしとしたことが、当事者意識のない政治家を多く輩出することになった。事実は違うだろう。ヒトラーはドイツ国民に支持されて大統領になり、ドイツ国民はナチスの指導に従ったのだから。
やがて、日本に千載一遇のチャンスが訪れた。昭和27年4月28日の主権回復である。このときに、占領下で押し付けられたことをすべて一旦無効にして再出発すればよかったのである。先にも述べたように、当時の吉田首相がそれをしなかったため、占領中の言い分がそのまま継続することになった。これが根本で、痛恨の一大事となり、未だに是正できていない。
外交はあくまで国益のための駆け引きである。表面はうまく取り繕おうとするが、相手の本心は別にあるということ。国益を考えると、謝罪はしないほうがよい。まして、歴史の事実に基づかない案件には絶対に謝罪してはいけない。特に、嘘も百遍唱えれば本当になる、口は嘘をつくためにあるというのを国是としている独裁国には。謝罪すればそのカードが永久に使われ続け、金品等を揺すり取られるうえ、嘘の話が本当にあった事件とされてしまう。永久に損をし続け、先達の徳を台無しにしてしまう。
謝罪を要求する側も、愚かにも安易に謝罪に応じる側も、その時代の当事者ではなくなりつつある。これ以上させないようにしたい安倍内閣には、一定の支持が保たれているが、果たして靖国神社に玉串料だけを奉って参拝には来ない首相に、英霊が力を貸してくれるのかどうか。
天皇陛下の「先の大戦で亡くなった人々の死を無にすることがないよう、常により良い日本をつくる努力を続けることが、残された私どもに課された義務であり、後に来る時代への責任である」との年頭の御言葉に従って、国民一人ひとりがそれぞれの持ち場立場に応じて生きてゆくことが、先達の願いでもあると思う。ひとたび肉体亡べば、タマシヒは幽の世界に戻り、人として顕の世界には蘇らない。幽の世界で自己のタマシヒが先達のタマシヒに再び相まみえたとき、顔を上げて堂々と復命できるだろうか。
□結 近世・近代・現代の流れのなかで
○他国との関係性が薄い近世から関係性の濃い近代へ
徳川時代は権威と権力の分立、朝権と幕権の分立の工夫に見る合理性、さらに幕藩体制においては親藩・譜代と外様の配置バランス(要地に親藩・譜代、遠隔地に外様、要職には前者、後者は幕政に携わらせないが石高は多く付与)を行なったことは、今日においても参考になるだろう。
その後、慶安の変が起こり改易等の処罰を緩めて文治政治の時期に入る。学問は儒学、なかでも朱子学を正学として子弟に学ばせ、優れた儒学者が多く登場した。古学の山鹿素行は『中朝事実』を著し、「易姓革命の支那ではなく万世一系の日本」こそが中華であると説いた。
近世後半になると、漢心(からごころ)を批判する国学者が現れ、「踏み分けよ 大和にはあらぬ 唐鳥の 跡を見るのみ 人の道かは」と戒めた荷田春満をはじめ、賀茂真淵、本居宣長、平田篤胤らが万葉集・古事記の研究に着手し、仏道を廃する復古神道への流れができた。(やがて神葬祭が復活し、明治維新における神仏分離令により神仏習合は廃止され、神社と寺院は分離した。日本の近代化はこのことと無関係ではないと、筆者は考えている。)
嘉永六年、いよいよマシュー・ペリーが来航し、幕府は有力な外様大名にも意見を求めるようになる。勅許なき開国を強行した井伊直弼に対して吉田松陰が登場し、幕末期を迎える。当のアメリカは南北戦争に明け暮れるなか、オランダに代わってイギリスが主導権を握る。明治政府は、蘭学から英語に切り替え、翻訳により多くの者が西洋文明を学んでいく。(印度などでは英語を翻訳することなく、そのままを受け入れたことにより、一部のエリートにしか学問ができなかった。)そして、和魂洋才を掲げながら近代へと入る。先進国から専門講師を招聘し、教育はアメリカ、技術はイギリス、医学・法律はドイツ、美術はイタリアから学んだ。
欧米の植民地になることを免れ、近代化を図る日本であったが、大きな問題を抱えることになった。日米修好通商条約が、治外法権・関税自主権の欠如・片務的最恵国待遇を認めた著しい不平等を強いられるものだったからである。一国と結べば次々に同様の不平等条約を結ばされる結果(安政の五カ国条約)となった。この痛恨事を回復するのに条約改正交渉を積み重ね、日清・日露の二大戦役を経て漸く不平等条約が解消できるまで、実に半世紀以上の歳月を要した。
さらに第一次大戦・日独戦争を経て、日本は列強と対等に付き合えるようなったかに見えた。ところが、またしても挫折感に見舞われた。第一次大戦後の国際連盟委員会において、日本は「人種平等の原則」を規約に入れるように、つまり人種差別の撤廃を提案した。裁決の結果、11対5の賛成多数(植民地をもつ英豪などが反対)であったが、議長の米大統領ウィルソンは「全会一致でないので不成立」と宣言。また、アメリカはモンロー主義を理由に上院が批准せず、国際連盟へは不参加。さらには、連邦議会にていわゆる「排日移民法」を可決。その後も満洲における日本の権益を横取りしようとして対立、支那事変後の援蒋ルート、ABCD包囲網による対日経済封鎖、最後はハル・ノート。
○戦後70年の現代を歴史の断絶から救え
以上、筆者の主観で近世から近代をごく簡単に概観してみた。不平等条約の問題解決に半世紀余りを費やし、さらに人種差別の問題に挫折して四半世紀余り、大東亜戦・大東亜会議(昭和18年11月5日~6日)を経て、アジアに多くの独立国が生まれた。それは日本の大きな犠牲の上に成ったことでもあった。敗戦国日本は占領下におかれ、千島・南樺太は旧ソ連に奪われ、台湾は共産党に追われた国民党が支配するところとなってしまった。
戦後70年を経た現代は、領土問題・拉致問題を含む安全保障の問題、エネルギー確保の問題、食糧の問題に直面している。これらのことをいかに解決するかが最重要課題となっていることは言うまでもない。しかし、そこには「歴史の断絶」という根本的大問題があったということに皆が気づかねばならない。近代の始まりから大東亜戦を経た後の現代について、他者との関係性も見据えながら歴史の真実を学ぶことが大事だ。
19世紀はパックス・ブリタニカ、20世紀に入って新興アメリカが台頭し、ついに日米戦争が勃発、21世紀になるとアメリカが衰退し始め、中国が台頭し始めた。さあ、どうすべきか。文化相対主義がいいのか、普遍主義でなければならないのかは、アメリカの出方一つで決まっていた時期は過ぎ去ったようである。キリスト教が普遍主義を貫こうとしても、イスラム側はものともしなくなっている。だから、全面的にアメリカに頼る時代は終わったといえる。
戦後の70年は、アメリカによって安全・エネルギー・食糧が確保できたので、政治の在り様はアメリカ追従となった。ある意味、そこさえ外さなければ良し悪しは別として国は維持できた。しかし、これからは危うい。アメリカの安全保障に陰りが見え始め、中共は尖閣を手始めに、小笠原諸島、沖縄諸島へも侵略の触手を伸ばしている。航空自衛隊のスクランブル発進がなければ、敵はとっくに実力行使していたであろう。いざというときの米軍の出方も探っているから、今のところはまだ少し日本に対しては慎重になっている部分もある。手っ取り早い手段は、沖縄から米軍を追い出すことだから、とっくの昔に運動家のなかに工作員を送り込んで扇動している。その工作にまんまと嵌ったのが翁長知事である。
今でも日本は平和だ、憲法9条のおかげだと騒いでいる者がいることに驚きを禁じ得ないが、押し付けられた憲法、どこの国も真似したがらない憲法だという事実を無視しての独善である。必要なときは外交で戦わねばならぬのに、戦うことを忘れたというより戦うことすら知らない坊ちゃん政治屋・弱腰外務官僚らが国を滅ぼす。嗚呼人栄え国滅ぶ、盲いたる民世に踊る。
泥縄式ではあるが、ようやく集団的自衛権という語を用いて対応しようとしている政府。少なくともアメリカ、アジアの周辺国とは連携しておかねばならぬ。危機が迫っているのに、違憲か合憲かなどと不毛の議論を展開している場合ではない。現実対応を急がねば、国の安全と国民の生命・生活が危ない。
それは今生きている国民の生活だけの問題ではない。基本的には、これまでの日本を築いてきた日本人、これから生まれてくる日本人を意識して、来し方行く末を包含した日本文明そのものの存否が問われている、と受け止めるのが妥当である。その中核にあるのが皇統なのである。皇統を踏まえてこの70年を考えると、いかに現象的な問題に終始して、物事の本質を見落としていたかが明らかになるだろう。負の70年を未来の糧にする思考法の根本に何を据えるかで、以後の答えもその内容を変えてくる。そこを意識しつつ、ここで取り上げた諸問題を通観してもらえれば幸いである。 (終)
平成27年7月24日
文責 阿部好孝