日本人慰安婦として性奴隷の象徴として利用されている「城田すず子」さん(故人)。
海外での慰安婦展示ではこのようなパネルが使われています。
“I was their ‘slave’.” 「私は彼ら(日本軍)の奴隷でした」
このようなパネルは彼女の本意でしょうか。
もし、ユネスコに新たに慰安婦性奴隷の記憶遺産が申請されるとしたら、彼女は利用されかねません。
城田さんの著書「マリヤの賛歌」から「石の叫び」まで丁寧に読み解いた報告をいただきましたのでご紹介します。
************************************************************************************
―造られた慰安婦像―
城田すず子さん
「マリヤの賛歌」から「石の叫び」へ
石川 直幹
(まえがき)
“元慰安婦、性奴隷告白者、「従軍慰安婦」慰霊塔提唱者”
城田すず子さんという女性がいた。
慰安婦問題に多少かかわった人なら遅かれ早かれ出会う女性。
冒頭はその城田すず子さんのイメージだ。
そのイメージの基となった彼女の実人生手記。
だいぶ前にそれが出版され、さらにその告白がラジオ放送されたとか。
さっそく著作について検索。
なんとA通販で目の玉が飛び出るような値段がつけられていた。
幸い公立図書館にあった。早速借りた。TBSラジオ放送の「石の叫び」の肉声はネットで聞けた。重苦しさなど微塵もないしゃきしゃきした江戸っこ弁だった。そして・・・拍子抜けした。
手記の方は一言、「転落、あばずれ、更生」・・・で、それが? なのである。
この当時、5万とあったであろう同様な人生の単なる一例、というのが個人的読後感。
しかも、城田さんのあばずれ女転落は戦後のパンパン時代のことであり、慰安婦時代はむしろ男女の悲喜こもごもの中で懸命に生きた一人の商売婦の手記と読み取った。
だから、この本の目的はなんなのだろうか、とおそらく誰でも考え込んでしまい、かえって何故このような手記がしたためられたのか読者にその目的を詮索させてしまう正直さがある・・・と思うのだが。
そして肉声の方は。
冒頭、ややべらんめい調の“憤り”から始まる。
この冒頭発言の内容は当時の女性全般について語っているもので、直接には城田さん自身の人生だけについてのものではないせいか、本には書かれていない。こういった発言と口調はところどころにみられ、本の方から受ける城田さんの印象と異なるが、或る“要素”や“からくり”に気付くと印象の違いの理由が納得できる。
一方、本に書かれていることで、明らかに言葉を変えたり、内容が付け足されたりしているところがある。それらは後述したい。
そのような違いはあるにしろ、全体あまりにあっけらかんとしたシャキシャキ江戸っ子弁で話された内容は、著作の「マリヤの賛歌」と大きく異なるものではないと受け取った。
とにかく本も肉声告白も拍子抜け・・・。
で、冒頭イメージはどこからくるのか。
ところがところが、違和感を覚えた箇所が一つあった。最初はそれが城田さんの肉声ではなくTBSのナレーションの一部分だったので、聞流してしまったのであろう。よく聞いてぎょっとした。衝撃的な内容だ。これも城田さんの告白の一部であるという説明にさらにぎょっとした。内容は当時の世相一般についてのものではなく、城田さんが直接に関係する慰安婦達の境遇についてであり、ある機関誌に城田さんが投稿した一文とか。
書けば数行のナレーション部分。この部分がいわゆる「石の叫び」とのこと。
「マリヤの賛歌」や城田さん自身の肉声の語り口、内容とはおよそ異なる。
ウーン、なんとなく??? 私の中に大きなクエスチョンマークが広がった。
たとえ内容が衝撃的であるにしろ、もし本当に城田さんの告白なら、城田さんの肉声を求めてしかり。せっかくのインタビューではないか。
(ただしよく読み解いていくと、これもからくりがある。後述したい)
そして、その後に吉田清治氏の肉声インタビュー。
やれ朝鮮人女性を奴隷狩りしたとか、やれ戦後日本はすべての証拠を焼却し隠滅を図ったとか・・・。
今では嘘話しとわかっているが、改めて聞けば、当時放送を聞いた人の衝撃はすさまじかったであろうと推察するに難くない。
だから余計にウーン?なのである。
商品の誇大宣伝は法律で罰せられるが、放送界では、「編集権」の名の下にそれが許されるようだ。巧妙な編集技を駆使してのイメージ作り(印象操作)。
本当の目的はそれであろうか。
まっ、それはさておき、以下に「マリヤの賛歌」及びラジオ放送(TBS)について気付いた点を挙げ連ねてみたい。
私の読後感が特異なものかどうか、ご判断をお任せする。
1、「マリヤの賛歌」全280ページの内、慰安婦時代の記述はたったの40ページあまり。
冒頭20ページが17歳までの簡単な生い立ち、それから戦前の慰安婦時代が40ページほど、戦後の売春婦時代がおよそ60ページ、後はキリスト教―具体的には矯風会やベデスダ会―との関わり合いの記述である。つまりキリスト教関係、これを更生時代とも言い換えられるであろうが、それが180ページ、全体の6割5分をしめるのである。
何も記述量だけが軽重の基準ではないが、少なくともこの本の構成からみれば“元慰安婦、性奴隷告白者、「従軍慰安婦」慰霊塔提唱者”というイメージとの関係は極めて希薄としか言えまい。
だから私のようにその観点から読んだ者にとっては拍子抜け。
そうではなく、キリスト教関係の更生施設に興味のある人が読めば参考になるに違いない。この本の目的はそこらあたりなのではないか。
いずれにしろ城田さんの「イメージ」はこの本からとは思えない。
とするとそれはどこからなのか。
2、深津文雄氏自身、「マリヤの賛歌」のまえがきで、この本の内容が当時においては格別数奇な人生ではないこと、キリスト教による更生
がこの本の主体であることを吐露している。
深津氏のまえがきによれば、城田氏は1958年11月に脊柱骨折を患い、病床において告白を始めたとある。終戦から13年、城田氏の年齢は30代半ば。記憶は確かであろう。当時「慰安婦問題」は存在していない。
従って深津氏のまえがきの次の記述から、この本の実体が浮かびあがる。
―矯風会の事業として映画化を企画~実現直前で中止。理由は宗教色が強すぎる
―婦人公論が抄録掲載~更生の記録ではなく、「転落の詩集」
―ある出版社による全文出版~顔が赤くなるような装い、男どもの欲望を刺激することに役立つだけ
―日本基督教団による出版~売れないと決めて絶版
といういきさつがあり、結局自費出版となる。
以上、深津氏によるまえがき。
つまり、ほとんどの人が戦争経験者であり、慰安婦だった人も多く存命していた当時としては、城田さんの人生がとりわけ人の注意をひくようなものではなかったのである。しかも、65%が宗教関係についての「告白」である。
要するに、つまらないのである(ただし無理につまらなくしたという作為の形跡あり~後述)。
それではなぜ城田さんが注目されるようになったのか。
冒頭イメージとの関係は何か。
3、1971年初版と1985年改訂第二版の違い~「石の叫び」の挿入
私が借りた本は1985年の改訂第二版であった。
1971年初版本を私は見ていないので、違いがあるのかどうか、すべてを承知することはできない。
しかし、ひとつだけ違があることは明らかだ。
それは第二版の深津氏のあとがきからわかる。
終戦から四〇年たち、遺棄してきた女性達に対し、“意を決して”城田さんが謝罪した、その謝罪の具体化が慰安婦慰霊碑の建立祈願であり、なぜ建立するかの理由がいわゆる「石の叫び」という告白だ、とあとがきに書かれている(ただしこの「石の叫び」というキャッチフレーズは翌年の1986年TBSラジオが放送したインタビュー全体をさす題名として現れたもので深津氏がそう呼んだものではない。ここでは便宜上深津氏のあとがきに書かれている部分を指すことにする)。実際に城田さんが語った言葉として「」で紹介されている。
終戦から40年、つまり1985年の告白ということになれば、これが1971年初版本に書かれているはずはない。
衝撃的な内容の「石の叫び」は1985年に登場したのである。
“元慰安婦、性奴隷告白者、「従軍慰安婦」慰霊塔提唱者”というイメージの始まりである。
しかし、しかし、ウーン、「マリヤの賛歌」本文とあとがきの告白とは別人が書いたものに思える。違和感を禁じ得ない。
“転落、あばずれ、更生・・・で、それが?”から“ええ!なんだって、ウッソー!”にかわるほどの違いだ。
深津氏は巧妙な副詞を添えることを忘れていない。
“意を決して”。
なるほど、1985年に至るまで、言えなかったのか!(ホントー?)
それから次々と朝鮮人元慰安婦のハルモニさん達が“意を決して”性奴隷体験を語り始めた。しかし不思議なことに、一番数の多い日本人元慰安婦で“意を決した”人は城田さんだけである。
4、城田さんが変えた言葉~三等船室が奴隷船へ
1986年に放送されたTBSラジオにおける城田さんの肉声の発言内容は、「マリヤの賛歌」の本文内容と大きく異なるところはない(TBSのナレーション部分―いわゆる「石の叫び」―は城田さんの肉声ではないので、この部分は脇に置く)。ただし、変えられた言葉、付け加えられた内容はあるので、まずそれらをピックアップしてみよう。ついでに私のコメントを加えた。(C)とヘッダー附記する
1、慰安婦として台湾へ渡る船について
「座ると頭がつかえる三等船室」(「本」P30、31)→
「船の底で、鎖こそかけられちゃいないけど奴隷だよね・・・」(肉声)
(C)では一緒に三等船室に乗っていた楼主や出稼ぎ、その他の人も皆奴隷ということに。
進駐軍占領期、殺人的満員電車に乗らなければならなかった日本人をしり目に、特別仕立て(グリーン車)一両に4,5名でふんぞり返っていた米軍将兵。これなんか三等船室どころではない。正に奴隷貨物車だ。
2、戦後、看護婦をめざしていた妹さんが自殺するが、
「妹だってお金があったら死ぬことないし・・姉らしいことは一つもしてやれなかった。でも私だって自分一人生きていくのがやっとだった・・・」(「本」P128、)→
「私が慰安婦だったの知って、もう生きているのがいやだっていって・・」(肉声)
(C)城田さんの肉声の後、TBSのナレーターが「内地では従軍慰安婦の存在はひた隠しにされていました」と続く。つまりここでナレーターが印象付けたいのは、一般には隠匿されていた“奴隷のように性奉仕をさせられた悲惨な”慰安婦の一人が姉であったということを知り、妹さんは自殺した。日本軍は姉だけでなく、妹までも残酷な運命に追いやった、と言いたいのである。吉田清治氏の奴隷狩りの嘘話を聞かせられた後ならば、ラジオの視聴者はこれを信じ、日本軍に対する嫌悪と憤りを覚えること間違いなし。
いやはや1986年にもなって、まだGHQの真相箱が続いているのだろうか。
だいたいひた隠しにされていた慰安婦について妹さんはいかに知りえたか。
つじつまのあわないこと多である。
妹さんの自殺理由は1960年前後の告白録(本)では生活苦。1986年の肉声では姉の慰安婦経歴。どうみても1960年の方が記憶が確かであり、その意味で信頼できると思うのだが。それとも今(1986年当時)になって思い起こせば、妹は姉の奴隷のような慰安婦経歴を苦に自殺したのだ、とはっと気が付いたということなのだろうか。だったら、それは城田さん自身が吉田氏の奴隷狩りの嘘話に影響され、また実は慰安婦とは日本軍にいたぶられ、動物のごとく捨てられた女たちということを吹き込まされて洗脳された結果であろう。
3、終戦前の数か月、パラオにおけるジャングルでの避難生活について、
「・・・たばこ半本、島民にやると小魚、バナナ、野菜をわんさと持ってきてくれました。・・農場へ行くにも裸足・・しまいには着る物もなくなって・・いよいよ食べるものもなくなって、いつ船が入るかわかりませんでした。・・伝保部隊の主計長さんが好意的にしてくれ、・・・粉と砂糖の混じったのを配給してくれました。・・・ジャングルには陸海軍の生き残った兵隊さんや、高級な技術をもった軍属さんが皆避難していました。その人たちのために慰安所を開こうと言う話が部隊から出ました。・・・野趣満々の家が軍属の工作班によってたてられました・・・上の方は女の子の部屋、谷川に近い方に炊事場、お風呂などが作られました。別にお客さんのための部屋もあり・・私の部屋でお客さんと話しているところにひょっこり紅樹園の主人がくると掴み掛らんばかりのやきもち、このやっかいな生活がいやになりましたが、内地に帰れるわけではないし・・・」(「本」P65~68)→
「椰子のきだとかさアンペラだとかみんな集めてね、慰安所を作ったの、川の流れているところに。それで、その所で死んだ人なんかいるわけ①、もう、女の人は惨めだったわよ。ほんとに惨めだったわよ②。でね、もう、水兵さんだってね、やせっこけてね、骨と皮ばかりになってウロチョロして、やっぱり、女の処に来るわけよ。もう、そんな骸骨に襲われてごらんなさい、気持ち悪いわよー③。ねえ、それでね、自殺しちゃった女の子がいっぱいいるのよ。とっても耐えきれないちゅって④。ジャングルに、もう掘って捨てる⑤所なんかないのよ。もうジャングルの中へポーンとほっぽり投げて、みんな野良犬だとか、何だか知らないけど、変な見たこともない動物が来てね、夜なんか食べるんだから、だから骨ばっかり散らばっているのよ。そういう風になっちゃうんだから。」(肉声)
(C)肉声の方の内容は全くと言っていいほど「本」の方には書かれていない。まえがきで、本の内容と肉声の内容とはそれほど異ならないと書いたが、こんなに違うではないかと言われるかもしれない。確かに一見、同一の人物が、同一の時代の同一の場所についての有様を書いたとはとても思えない印象を受けるだろう。しかし視点が変わると、焦点とする内容も異なってくる。
「本」は“懸命に生きた”という視点で書かれており、肉声は“日本軍罪悪史観”がその視点だ。焦点があてられたところも言葉も変わってくるのである。だから大方の内容の違いは“推察”できる範囲であり、従ってそれほど内容は異ならないと言えよう。ただし一か所を除く(後述④)。
具体的には:
①その場所で死んだ人なんかいるわけ~
このような生活環境なら死人も出よう。
当たり前すぎて本には書く必要がなかったのであろう。
②女の人は惨めだった~
惨めでない人はおそらくいなかったであろう。これも当たり前すぎて本には書く必要がなかったのだと思う。
ただし、惨めなのは女だけではなかったはずだ。
こでは「女」を強調するのは、「女」=「慰安婦」を暗示し、城田さんがすでに慰安婦性奴隷史観に陥っているのがわかる。
③そんな骸骨に襲われてごらんなさい、気持ち悪いわよー~
骨と皮の兵隊さんもいたであろう。ここは問題ない。しかし次の言葉、“ウロチョロして”は明らかに戦後の日本軍罪悪史観からきている言葉である。もし当時、城田さんが真に“いやねー、ウロチョロして、あっちへ行ってよ”と思っていたなら、それはもう人に非ずの醜い心の所作である。たとえば東日本大震災で、ひもじい思いのやせた人に対し、ウロチョロしないであっちへ行ってくれ、と言っているのと同じ。更に“襲われて”という表現も問題である。二重に問題である。恐らく痩せこけた兵隊さんは慰安所に客として来たのであろう。それを襲われてというように表現するのはこれも日本軍罪悪史観と慰安婦性奴隷史観からきているものと思われる。「本」の方を読んだ人なら、襲われた風に感じたこともあったのかなー、とその時の気持の表現として受け入れることもできようが、この肉声を聞いただけの人は、死に損ないのような兵隊にまで性の奉仕を強制されたと解釈するであろう。この城田さんの言葉は慰安婦性奴隷を説く人たちにとってはまたとない裏付けの証言として利用され得る。
④それでね、自殺しちゃった女の子がいっぱいいるのよ。とっても耐えきれないちゅって~
ここはとんでもない問題発言であるし虚実不明。
「本」の方にはこのようなことは一切書かれていないし、推察もできない。
「自殺しちゃった女の子もいたのよ」であれば、これは推察できる。しかし自殺者がいっぱいいた、となるとそれが事実であれば必ず本の方に書かれたはずである。なぜなら、ジャングルでの極限状態での生活においてさえ、男女の関係に敏感であった城田さんが、自分の仲間たちである女の子たちが次々に自殺したことに対し鈍感であるはずはなく、もし事実なら必ず本に書かれなければおかしい。
実際、3人の女の子が空襲で死んだことについてはしっかりと書かれており、火葬するわけにもいかずそのまま埋めた、と苛烈な空襲下にあっても日本人として埋葬し弔うことを当然のこととして行っている(「本」P62)。これは次項の⑤とはだいぶ違う。
更に、「それでね・・・とっても耐えきれないちゅって」という表現は、自殺の理由が直前のやせこけた男から襲われた、つまりそんな“気持ち悪い”ことが頻発していたからということになる。「それでね」という表現は必ずしも前後の因果関係を示すものではないし、インタビューでの話し言葉なので、文章のように接続詞等を推敲することができないのはわかるが、本の内容からかけ離れすぎている。この一文で城田さんの手記も肉声もその信頼性は一挙に失墜しよう。
⑤もう掘って捨てる~
自殺した女の子たちを“捨てた”のである。日本人ならどんな人でも、掘って“埋める”というであろう。それができず、事実は捨てたような状況であっても、表現としては掘って埋めたかったができなかった、と言うであろう。“捨てた”という表現に慰安婦性奴隷史観がにじみ出ている。掘って捨てた、とそれこそ言い捨てた城田さんは、すでに慰安婦性奴隷史観の中にいる。前述④のごとく、「本」では「埋める」と言う言葉を使っているし実際埋めたのである。
5、1986年の肉声の中で、何気なく発している言葉に、WGIP自虐史観、日本軍罪悪史観、慰安婦性奴隷史観が現れている。
前述した、ウロチョロ、骸骨、襲われ、気持ち悪い、捨てる、奴隷船の他に具体的な例をピックアップしてみたい。
(ちなみに1960年前後の告白である本の方ではこのような史観は見えてこない)。
まず肉声の冒頭―といってもTBS“編集権”の介在による冒頭で、実際に城田さんが話した順番でなかろうが―そこからして激しい当時の日本非難で始まる。一見、戦時に懸命に生きた女性、慰安婦等、大勢死んでいるにもかかわらず、一切顧みられていないという現代社会(1986年時台)を嘆き非難している内容で、実際しごくまっとうな共感を得られものと捉えられるのであるが、話の“出だし”は次の通りである。
「若い人なんかチュウガイコクなんか知らないからほんと幸福よ、ほんと幸福。チュウガイコクとかチュウコウだって狩り出されていった女の子のこと一言も言ったことないのよ・・・・」
筆者が付した斜体部分は、戦争一般に対する非難というより、戦前の日本に対する激しい嫌悪感の表出であり、非難であり、明らかにWGIP自虐史観、日本軍罪悪史観がその基にある。
城田さん本旨とするところは、戦争で散って行った女性に対する慰霊であろうが、“出だし”があるためにそれがぼけてしまっていることは否めない。
又、本旨をはずれて、この出だしを印象操作のかなめとして利用する意図があったとすれば、正に出だしとして冒頭の冒頭に持ってくることがうなずける。
城田さんの冒頭発言の後、ナレーションが続く。
「日中戦争、太平洋戦争のさなか、侵攻をつづける日本軍を追うようにして、戦場から戦場へと渡り歩く女性の一団があった。彼女たちは従軍慰安婦。兵隊相手の売春婦である。日本軍が戦場へと送り込んだ従軍慰安婦は10万とも20間万人とも言われているが、その存在は軍事機密にされ、彼女たちがどこから連れて来られ、そしてどこへ消えて行ったのかは今もなぞにつつまれている」
(筆者コメント:侵攻ねー?まあ戦勝国史観でしかたないか。でも売春婦だって言ってますね。日本軍が送り込んだ~これは事実と違う、はしょりすぎ。10万20万は朝日新聞さんも訂正謝罪したことだし、今からでもやはり訂正すべきではありませんか。軍事機密?吉田清治氏の嘘話丸のみか?確かに慰安婦の写真等は禁じたこともあったかもしれないけど、“醜業”と言われた職業についている人達を慮ったからでしょう!)
「TBSラジオニュース部記者、カミゾノオサムです。・・・・」
(カミゾノさんに、このインタビューについて今どう思っているか聞いてみたい)
「内地も襲撃を受けるっていう噂・・・どうせ死ぬなら兵隊さんのために役だってね、死んだ方がお国のためになるという馬鹿な気持ちを起こしちゃった・・」
これは本の方でも読み取れる内容であるが、しかし斜体の「馬鹿な」という形容詞は、戦後15年1960年前後の告白である本の方には存在しえないであろう。「懸命に生きた」という視点からは不適切な言葉であるし、当時はもとより1960年においても「馬鹿な」という風には思っていなかったに違いない。戦後40年のインタビューで出てきた自虐史観の言葉である。
6、「石の叫び」の作者は?
1985年版「マリヤの叫び」における深津文雄氏のあとがきに書かれ、1986年のTBSラジオ放送にて(城田さんの代わりに)ナレーターが語った「石の叫び」を全文かかげてみよう。
深津氏のあとがきだけに掲載され、TBSのナレーションにはない(たぶん省略された)部分は≪≫を付した。逆にTBSの方にあり、あとがきにはない部分は( )を付した。少し読みづらくなったが、とりあえずさっとお読みいただきたい。
「(終戦後40年にもなるのに日本のどこからも、ただの一言も上がらない。)
兵隊さんや民間人のことは各地で祭られるけど、中国、東南アジア、南洋諸島、アリューシャン列島で、性の提供をさせられた*娘たちは、さんざん弄ばされて、足手まといになると、放り出され、荒野をさまよい、凍りつく(原野)≪サイム≫で飢え、野良犬か狼の餌になり、(土にかえったのです)≪骨はさらされ土になった≫。(軍隊が行ったところ、どこにも慰安所があった。看護婦は違っても特殊看護婦となると将校用の慰安婦だった。)(兵隊用)≪兵隊さん≫は一回五十銭か一円の切符で行列をつくり、女は洗うひまもなく相手させられ≪・・て≫、(死ぬくるしみ。)なんど兵隊の首をしめようと思ったことか、半狂乱でした。死ねばジャングルの穴にほうりこまれ、親元に知らせる術もない。≪有様です。≫それを私は見たのです。この眼で、女の地獄を・・・。(四十年たっても健康回復はできずにいる私ですが、まだ幸いです。一年ほど前から祈っているとかつての*同僚がマザマザと浮かぶのです。私は耐えきれません。どうか慰霊塔を建ててください。それが言えるのは私だけです。)」
冒頭まえがきでも述べたが、これは「マリヤの賛歌」を読んだ者からすると大変な違和感がある代物である。
それは内容だけでなく文体、更に一つ一つの単語についても大いなる違和感を覚えることも理由である。
私は「本」がつまらないと申し上げた。当時の生き様として格別数奇なものではないからである。ところが「石の叫び」の方は、つまらないかどうかの次元ではない。自分の人生は“女の地獄”であり、あまたの女が日本軍により地獄に落とされたと言っているのである。いきなり、何なんだよ、ホントカヨ、エエ?ウッソー!と思わず叫んでしまう。しかも文体ときたら「マリヤの賛歌」とは全く違う。単語だって、城田さんの本には“娘たち”という単語は一度も使われていない。“女の子”である。また“同僚”などという一種の男言葉など使うはずはない(*印部分)。これは何かあるな!と私ならずとも首をかしげながら真相究明の意欲に燃える人もいよう。
で、もちろんおられた。
ジャーナリストの大高未貴氏がすでに検証記事を書かれている。
まず「石の叫び」の出所。
それは城田さんが深津牧師に送った手紙の中に書かれているのだそうだ。
ならば自筆の手紙を見せて欲しいと、大高氏は「かにた婦人の村」の天羽道子シスタ-に何度かかけあったそうだ。だが確たるお返事はなし。
返事がない!
エエ、ドウシテ、ウッソー!何かある、何かある、今度はわくわく感で叫んでしまう。
大高氏は書く。
「1962年『愛と肉の告白』刊行。『マリヤの賛歌』は『愛と肉の告白』の復刻版のようなもので、前者には削除されている部分が多々ある。」
「マリヤの賛歌」の前に城田さん、すでに本を出していたのだ。なるほど。深津氏が「マリヤの賛歌」のまえがきで、城田氏は1958年11月に脊柱骨折を患い、病床において告白を始めたと記している。1962年刊は年代が一致する。
記事にはその内の主要部分が掲載されていた。
エエ、ウッソー、ホント―?
その主要部分を読んだ。これはまるでポルノの出だしではないか。
不謹慎ながら男の私にはそのようにとらえられてしまう。
なるほど、深津氏のまえがきに―ある出版社による全文出版~顔が赤くなるような装い、男どもの欲望を刺激することに役立つだけ―とあった。合点。
要するに「マリヤの賛歌」は恣意的につまらないものにされたのだ。
で、どうして?
大高氏は続ける。
「城田さんの人間としての生々しい感情が削除されているのだ。従軍慰安婦プロパガンダ推進者にとって、城田すず子が主体的に売春婦としての自分の人生の宿痾と戦ってきた事は不都合な真実であり、日本軍=加害者、城田すず子=被害者という構図を作り上げるため、それを削除する必要があったのだ。」
ええ!もうこの時点から出来レースなのかよ!
実際大高氏もそのように主張している。
更に大高氏は深津氏の正体にせまる。
記事にある人物像を一言で表せば、“GHQから宗教界の改革をもちかけられ快諾し、キョウサントウというあだなをつけられ、キリスト教会の左翼といわれた人”。
GHQという日本解体を至上命令とした左翼集団。深津氏はそのメンバーとも言える存在だったわけだ。
そこでふと私は矯風会について思い出した。
城田さんが滞在した施設のいずれも矯風会と関係がある。
この矯風会、元会頭であった高橋喜久江氏は韓国挺身隊問題対策協議会と密接な関係をもち、慰安婦問題を拡散した人物であり本人もそのことを自認している人だ。
舘雅子氏によれば、1992年挺身隊問題アジア連帯会議において、他国の元慰安婦による日本軍擁護の発言をどなって制止したのがこの高橋氏であるとのこと。
矯風会の所在地は新宿百人町。あれ!かの有名な西早稲田界隈だ。
いやはや、こうなると一体「石の叫び」は本当に城田さんが書いたのか、と誰でも疑いたくなろう。
しかも、1986年のTBSラジオ放送では、肝心な「石の叫び」は城田さんの肉声ではなく、TBSのナレ-ターが読み上げているのである。なぜ城田さんに言わせないのか。
7、巧妙な言葉使いをはぎとると、それは意外にも「事実」
では、「石の叫び」は城田さんの作ではないのだろうか。
別に作者がいて城田さんの名前を無断あるいは承諾を得て借用したのだろうか。
大高氏はそこには触れず、城田さんは利用されたのではないかと疑問を呈している。
私は個人的見解として、「石の叫び」は基となる城田さんの手紙があって、それを巧妙な文章表現を駆使し、慰安婦性奴隷へ偏向させたと見る。
理由は次の2点。
1)城田さんと深津氏との間には数多くの手紙のやりとりがあったに違いない。城田さんは少なくとも、「愛と肉の告白」「マリヤの賛歌」が敢行されたころまでは、自虐史観や日本軍罪悪史観は恐らくあまり無かったものと思われる。ところが、1986年の放送での発言は明らかに自虐史観や日本軍罪悪史観に染まっている。従って、1985年までの手紙のやりとりの中で、過去の告白を自虐史観により捉えなおし、手紙に書いた可能性はある。
2)一読すると、確かに慰安婦の悲惨な境遇と日本軍の残酷性が印象に残る。しかしよく読むと、「石の叫び」にあるような悲惨な境遇は、ある時期、具体的には敗戦が近くなった時期は慰安婦だけでなく、民間人もさらには日本兵士たちも同じような悲惨な境遇にさらされたのであり、従って嘘ではないが、他に悲惨な人達もいたことや悲惨だった時期が明示されておらず、巧妙に慰安婦だけにスポットライトを向けている。又、安くはない売春代金をもらっていたことを意外にも正直に挿入している。しかし前後をつなげると、はした金で休む暇なく相手をさせられたという印象に終わる。それなりの報酬をもらっていたのではまずいであろう。
嘘ではない城田さんの自虐的、日本軍罪悪史観的告白を骨にすえ、誰かが巧妙な粉飾をほどこしたのだ。しかも、「嘘だろう」と言われれば「嘘ではない」という抗弁の余地もちゃんと用意しているのだ。
さて、もう少し具体的に化けの皮をはいてみよう。
まず以下の部分。
「中国、東南アジア、南洋諸島、アリューシャン列島で、性の提供をさせられた娘たちは、さんざん弄ばされて、足手まといになると、放り出され、荒野をさまよい、凍りつくサイムで飢え、野良犬か狼の餌になり、骨はさらされ土になった。」
だいたい城田さんが慰安婦として働いたところは台湾と南洋諸島のごく一部である。中国、東南アジア、アリューシャン列島における状況をどうやって知りえたのか。城田さんのようにこれらの土地についての手記をしたためた人がいたのだろうか。
「さんざん弄ばされて」と主観的捨てぜりふを吐くのは勝手である。本当に弄ばれたかどうかは別にして、もしそうであったとしてもそれに見合うかそれ以上の高額の報酬を得ていたわけで、そのことを自ら後述している。つまり、私は嘘をついていませんという、抗弁の巧妙な印象操作が行われているのである。
いずれにしろ自分勝手な主観を普遍的な実態であるかのように、これまた自分勝手に決めつけているわけだ。
「足手まといになったらおっぽり出されて」これも主観的捨てぜりふであろう。
しかもおっぽり出した主体が明記されていない。
仮に「おっぽり出された」という表現が許容されるならば、それは終戦間際から終戦直後にかけて、混乱した各地においておっぽり出された人達が多数いた時期において言えることである。なぜならおっぽり出したのは戦争そのものであるからだ。当然ながら、慰安婦だけがおっぽり出されたわけではない。
足手まといになり日本軍におっぽり出されたと言いたいなら、その日本軍もおっぽり出されていたことをどう説明するのか。
終戦間際だけでなく戦時中ずっと、足でまといになったらおっぽり出されたというなら、エビデンスが必要だ。
時期も、主体も明記しなければ、「嘘だろう」と言われた時、終戦間際に足でまといになりおっぽり出されたと抗弁できるわけだ。
さてそれに続く次の内容も同じことが言える。
「荒野をさまよい、凍りつくサイムで飢え、野良犬か狼の餌になり、骨はさらされ土になった。」
終戦間際から終戦直後にかけて、混乱した各地においてこのような境遇の人は多数いたであろうし、従って慰安婦だけがそのような境遇であったわけではない。
次は「石の叫び」後段である。
「兵隊さんは一回五十銭か一円の切符で行列をつくり、女は洗うひまもなく相手させられ・・て。なんど兵隊の首をしめようと思ったことか、半狂乱でした。死ねばジャングルの穴にほうりこまれ、親元に知らせる術もない。それを私は見たのです。この眼で、女の地獄を。」
前述したとおり、ここは安くはない売春代金をもらっていたことを意外にも正直に挿入している。ただし、「行列を作り」などという第三者的視点で高額売春代金を描写しており、自分たちとは関係のない代金であるような印象の言葉を選んでいる。その後に「女は」と一般化して高額代金がはした金に思えるほどこき使われた、と客観的事実を述べている印象を与えながら、次に兵隊の首をしめようと思った、とか半狂乱だったとか、洗う暇もないほどの状態に対する自己の反応を主観的に述べている。
すべての慰安婦が四六時中洗う暇がないほどの状態だったのかどうかは大きな疑問がわくし、兵隊の首をしめたいという城田さんの個人的思いを慰安婦全員の思いとするような印象をあたえる書きぶりはそれ自体意図的である。だいち、城田さんがそのような思いがあったなどということは2冊の著作からは想像さえできない。
「死ねばジャングルの穴にほうりこまれ」
ここは前述したように、終戦間際に限って言えば過酷なジャングル避難生活で死んだ人もいるだろうし、実際放り込まれるような埋葬をせざるを得なかったこともあろう。時期を限れば事実である。ただし「ほうりこまれる」などというWGIP自虐史観、日本軍罪悪史観の言葉は著作からは想像できない。問題は終戦間際ばかりでなく、戦時中いつも次から次へと女が死に、穴にほうりこまれたという意図的な印象操作が見えることである。
最後のとどめ―「女の地獄」―慰安婦・女に特化
時期も主体も明示せず、主観を客観のようにみせかけ、日本軍罪悪史観と悲惨な慰安婦の境遇を総括し決定づけているのが、最後の「女の地獄」という言葉である。「女」という特化によって、それ以外の人達の境遇を忘れさせ、慰安婦だけがそうであったという印象を読者や視聴者にもたせているわけである。
しかしこのからくりは同時に大きな矛盾も作り出しているのではなかろうか。
冒頭に「兵隊さんや民間の人は各地で祀られるけど・・」と、巧妙にも祀られている理由、すなわち国家のために戦い、あるいは悲惨な境遇のうちに命を落とした人達への慰霊のためという理由に言及されてはいないものの、かたや女の地獄であった慰安婦の慰霊がなされていないと訴えれば、兵隊さんや民間の人も同じ悲惨な境遇だったからだろうとすぐに理解できる。そうであれば慰安婦だけに特化された境遇ではなかったこともすぐに理解できるからである。
本項のまとめとしてちょっと遊んでみたい。
城田さんの手紙があったとすれば、元々はきっと次のような文面ではなかっただろうか。
『親の借金で仕方なしに外地へ行ったけど、横浜の港で父親の泣いている姿を見て覚悟きめたの。確かに兵隊さんからもらう代金は50銭とか1円とか決して安くはないものだったけど、兵隊さんが列を作って待っていて、実際洗う暇もないほど忙しい時は、兵隊の首でもしめてやろうかと思いました。しかも借金はほとんど減らなかったし。もっともぜいたくな着物をたくさん買ったからあたりまえですけど。それで一旦は東京へ戻り、南の島は玉代がいいっていうんで行ったんです。行ってみるとなんかのんびりしてるし、借金はおもしろいほど減っていった。好きな人もできたし。それでもう一度南へ行こうと思ったんですが、その時はもうあぶないからやめろと言われるような状況。どうせ死ぬなら兵隊さんのために、なんて自分に言い聞かせて無理やり行っちゃたけど、本当は恋心が理由だったのよ。でね、実際空襲が始まるとそれはそれはすさまじかった。生き残った人は、兵隊さんや軍関係の人も含め皆ジャングルの中へ避難。食べ物も着るものもなくなった。もちろん死んだ人もいた。本当は掘って埋めたかったけど、ジャングルの穴に放り込むよりしかたなかったのよ。あたしたち慰安婦や女の子たちだってとんでもない苦労をしたんです。それなのに、兵隊さんや民間の人、そして原爆の慰霊碑はあるのになぜ私たちのはないの? 戦後になって聞けば、中国だって朝鮮だってシベリヤだって、みんなと同じような悲惨な運命になった女の子たちも多いというのに。是非慰安婦の慰霊碑をたててください』
8、まとめ
1)城田さんの著作は2点。1962年刊「愛と肉の告白」と1971年刊「マリヤの賛歌」。「マリヤの賛歌」は「愛と肉の告白」の復刻版と言えるが、「愛と肉の告白」における城田さんの心情部分はすべてと言っていいくらいカットされており、つまらないものとなっている。戦時に生きたことについての手記としてはありふれた内容である。
2)深津氏自身、「マリヤの賛歌」のまえがきで、この本が「つまらない」という評価であったことを吐露している。
3)全体280ページのうちキリスト教関係の施設やそこにおける更生についてが65%を占め、この本の中心テーマはそこにあることがわかる。そのことも「つまらない」ものとなった大きな理油である。
4)この本の中心テーマがキリスト教関係の施設やそこにおける更生についてであるなら、コロニー(更生定住村)を計画していた深津氏の意向に沿ったものであると言える。
5)初版の1971年から14年という長すぎる年月を経た1985年「マリヤの賛歌」第2版が出版される。その第2版には深津氏によるあとがきの中に突如、いわゆる後に「石の叫び」という城田さんの慰安婦慰霊碑建立の願いが紹介された。しかしそこに書かれた慰霊碑建立の願いの理由は、内容も文体も2冊の著作からは推察さえできない違和感のあるもので、別人が書いたのではないかという印象さえ与えるものである。
6)1986年TBSラジオは「石の叫び―ある従軍慰安婦の叫び」と題し城田さんを中心に3人のインタビューを放送した。そこにも深津氏あとがきにある「石の叫び」も紹介されるが、なぜかその部分は肉声ではなくTBSアナウンサーのナレーションになっている。
7)インタビューにおける城田さんの発言内容は、上述ナレーションの部分を除き、おおよそ「マリヤの賛歌」に沿ったものであるが、著作の内容とは違っている部分、付け加わった部分や変えられた言葉もある。それらの部分や言葉は慰安婦の悲惨さを強調する効果を与えている。又、WGIP自虐史観、日本軍罪悪史観に影響されている言葉や表現が散見される。
8)ラジオ放送ではナレーションで紹介されたいわゆる「石の叫び」を読み解くと、そこにある慰安婦の悲惨な境遇は、終戦間際から終戦直後においては、外地にいた人すべてに多かれ少なかれあてはまるもので、少なくともその時期に限れば嘘ではない。しかし巧妙にも、悲惨な境遇であった時期も、何によって悲惨な境遇になったかも言及されていない。更に慰安婦慰霊碑建立がその中心となる目的であるはずなのに、悲惨な境遇が慰安婦だけに特化されているような言い振りは、すでに存在する兵隊や民間人の慰霊碑がなぜ建てられたかを考えれば、矛盾を露呈している。
9)ラジオ放送は城田さんの肉声部分を補強するため、自虐史観、日本軍罪悪史観の表現、言葉をそれとなく含んだナレーションや音響効果で悲惨な慰安婦の境遇を盛り上げているが、肝心な事実、慰安婦が高額な報酬を得ていたことは全く言及していない。このことは慰安婦奴隷史観をとる人たちに共通して言えることである。
10)そもそも城田さんが、人を騙し、賭け事に走り、ヒロポン中毒となり心身ともに荒廃したあばずれ女に転落したのは、戦後のGHQ相手のパンパン(GHQ慰安婦、私娼)時代であって、日本軍慰安婦時代はむしろ、自己の宿命を受け入れながら男女の悲喜こもごもの関係の中で懸命に生きたことが「マリヤの賛歌」から窺える。「女の地獄を見た」とか「自分は奴隷だった」という位置づけをするならば、それは日本軍慰安婦時代のことではなく、日本人全員が奴隷運搬車両とも言うべきすさまじい満員列車に乗らざるを得なかったGHQ占領時代について言えることである。城田さんが自己の境遇を「地獄」や「奴隷」という言葉で総括しようとするならば、GHQ占領という「時代の奴隷」であったと、言うべきである。
11)深津氏という人はGHQからキリスト教界の左翼化を持ちかけられ快諾し、キリスト教界の共産党とまであだなされた人物である。又同氏の著作には「日本の性風土は歴史的に世界最悪のものである」というような考えが表明されているようで、とすれば潔癖性というより日本に対する嫌悪感のようなものが内在している人物かもしれない。一方、城田さんが滞在した施設は、矯風会関係のもので、その元会頭の高橋喜久江氏は慰安婦問題を拡散したことを自認している人物とのことである。慰安婦関連の国際会議において、他国の元慰安婦が日本軍擁護の発言をした時、どなってそれを制止したという証言もある。このような環境が城田さんにどのような影響を与えたかは自ずと理解できよう。
12)ジャーナリストの大高未貴氏は「石の叫び」の検証記事をしたためているが、「石の叫び」の基となった城田さんの自筆の手紙は、それがあればその保管をしている可能性が一番高いと思われる人にかけあったがらち開かず、結局その存在を確認できなかったとのことである。
以上により、深津氏のあとがきで紹介された城田さんの「慰安婦慰霊碑建立願い」すなわちTBSラジオで放送された「石の叫び―ある従軍慰安婦の叫び」の中のアナウンサーナレーション部分は、城田さんの手紙を基に、ある意図をもって巧妙な言葉や表現への置き換えにより作成されたものとみることができる。
GI相手のすさんだあばずれパンパンであった時代の城田さんの実像が、いつの間にか慰安婦時代の城田さんに置き換えられ日本軍奴隷という“造られた慰安婦”の虚像にすりかえられたしまったわけだ。
“元慰安婦、性奴隷告白者、「従軍慰安婦」慰霊塔提唱者”と言う城田さんのノイメージは、実は“元慰安婦、GI性奴隷告白者、「従軍慰安婦」慰霊塔提唱者”という実像のGIがはずされたものなのである。
なお、TBSラジオの「石の叫び―ある従軍慰安婦の叫び」は第12回放送文化基金賞奨励賞を獲得した。
この放送はネット上に公開されているし、千葉県館山市にある安房文化遺産フォーラムのホームページに文字起こしの全文が掲載されている。
これらはアーカイブとしての役目を果たすべく扱われているものと思われるが、「石の叫び―ある従軍慰安婦の叫び」における三人の被会見者の内一人は吉田清治氏で、同氏の肉声内容は今では嘘話しであることが判明しており、それについて注書きもせず、そのままになっているのはいかがなものか。
知らない人は今を以て同氏の嘘話しを信じ込んでしまう可能性があり、又そのことを知ったときには城田さんの肉声内容ひいては放送内容、掲載内容すべてに疑問を抱く可能性もある。城田さんの話しも嘘であろうということになりかねない。
更に言えば、TBSラジオは賞を返還し、朝日新聞同様謝罪すべきだ。
以上
************************************************************************************