シアトルの航空博物館 The Museum of Flight の展示について、在米のなでしこ仲間から報告がありましたのでご紹介します。
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先日観光で、シアトルにある航空博物館The Museum of Flightという所に行きました。
そこに第二次世界大戦の日本軍の戦闘機、隼 Nakajima Ki-43-IIIa Hayabusa “Oscar” Reproductionが展示されてあったのですが、その前にある説明文にはなぜか南京大虐殺の事が書いてあったのです。
※展示説明文日本語はこのページの一番下にあります。
日本軍が、南京の市民、30万人を死傷させたというものです。そしてあの有名な、赤ちゃんが駅で一人取り残されて泣いている写真も添えて有りました。
一瞬凍り付いてしまいました。
なぜ戦闘機と関係のない事件が、わざわざ説明文としてあるのか?他にもっとふさわしいエピソードがあるはずなのに…
あそこは有名な観光地でもあり、沢山の人達が世界中から訪れる場所です。地元の子供達も、教育の一環としてよく訪れているようです。博物館と名のつく所ですから、見たままを100%信じるでしょう。せっかくの観光なのに凄く嫌な気持ちになりました。
The Museum of Flightはボーイング社によって1965年に開館しました。世界中から集められた150機以上の戦闘機や、民間機、スペースシャトル関係が展示されており、HPによると年間、約50万人が訪れるとの事です。私が言った時は家族連れが多く、小さい子供から、お年寄りまで、幅広い年代の人達がいました。
最も人気のあるのは6階建てぐらいの高さで、ガラス張りの明るい大きなホールに、ライト兄弟の復元機とか、初期の旅客機、ベトナム戦争時のヘリコプターや戦闘機、ソ連のミグ爆撃機、その他、湾岸戦争当時までの沢山の飛行機が、所せましと展示されています。
その他にスペースシャトル関係の展示、外にはエアフォースワンや、コンコルドなど引退した有名な飛行機が展示されてあり、実際に中に入って見る事ができます。
キッズ用の部屋もあり、子供が乗って遊べるような小さな飛行機の模型がいくつもあり、遊園地のような感じで楽しめます。
また、地元では子供達の校外学習に使う学校もあるようです。
HPには、’Education’「教育」サイトもありますので、子供達を対象に教育プランも用意してあるようです。
隼について調べたところ、1938年暮れにテスト飛行され、実戦に使用されたのは数年後のようです。それなのに、ほとんど関係のないであろう、日本軍が中国を侵略し、多数の中国人の死者を出したという事、「レイプ オブ 南京 」 30万人の一般庶民を死傷させたという事が書かれた説明文のパネルがすぐ横の目立つところにありました。
一緒に添えてある赤ん坊が負傷して泣き叫んでいる写真は、1937年に日本軍が上海の駅を爆撃した時のもので、日本軍の蛮行として、当時アメリカや他の国で大きく取り上げられたものです。アメリカ人はこれを見て、中国に同情し反日感情に大きく火をつけたようです。
説明文は隼が展示された2004年当時からあるようです。’
日本が戦前、戦中にどれだけ悪かったかという事を伝えるために、わさわざ目立つところにおいてあるように思いました。ちなみに関係ないとは思いますが、案内係に中国系か、韓国系らしい若者が数人いました。
近くには日本軍により負傷された米兵が、中国人らから手当てを受けて一緒に微笑んでいる写真がありました。
また、私が写真を撮ろうとバッグからカメラを探している時、説明文を真剣に読んでいるアメリカ人がいました。あれを読んだ人は、まさかこのような立派な博物館に嘘が書いてあるなどとは思わないでしょうから100%信じてしまうでしょう。
中国はアメリカにも手を伸ばしているのでしょうか? 色々考え、何とも言えない怒りと悔しさを覚えました。
シアトル航空博物館 The Museum of Flight
http://www.museumofflight.org
問い合わせ
http://www.museumofflight.org/contact
【展示説明文 日本語】
タイトル:日本が中国を侵略 Japan Invades China
(タイトル横の説明書き)
日本の中国征服計画は1914年からだが、実際の侵略は1931年9月の満州の占領から始まった。
その後数年間で、軍事脅威と外交を行使し、万里の長城までを制覇しようとした。
そして日本は1937年に北京と上海で危機を引き起こした。
この年の12月、日本軍は中国最大の街を略奪し、「レイプ オブ 南京」と呼ばれる民間人30万人を死傷させた。
蒋介石中国国民党と毛沢東共産党の同盟関係は脆弱で、日本は中国東部を1938年12月までに占領した。
(タイトル下の説明書き)
膨大な被害だった。
日本の侵略の結果、1941年12月までに約180万人の中国の民間人が死亡し、1945年8月までに更に800万人が死亡した。
日本軍は、1942年5月にビルマを占領。ビルマのラングーンと連合軍の中国南部主要基地である昆明を結ぶビルマ公路の閉鎖に成功した。
ビルマ公路を閉鎖された連合軍は補給の道を断たれた。
このため、米陸軍はインドからヒマラヤ山脈を越える有名な「ハンプ越え」と呼ばれる空輸ルートを作った。
その後3年間で日本は中国を制覇したが、1945年に英国軍がビルマを奪還した。
その頃までには、日本は連合軍の侵略から日本国を防衛するために、中国本土から軍隊を引き揚げなくてはならなかった。
にもかかわらず、1945年8月15日の対日戦勝記念日時点でも日本帝国陸軍は広東・香港を含む中国の主要地域を支配していた。